2005年3月
証 『教会生活・学園生活』
聖書 ヨハネによる福音書15章11節〜17節
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実がのこるようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
伝道会証し 「教会生活」
このようにして、伝道会で証しできることを感謝します。
きょう証しさせて頂くテーマとして、『教会生活』とさせて頂きました。というのも、わたしにとって教会生活こそ幼い頃からの基点であり、慰めが与えられる場であるからです。
そして、もうひとつ話させて頂きたい事があります。わたしは、現在キリスト教主義の大学に導かれ、人文学部の欧米文化に在籍する大学1年生で、来年の4月から2年生になります。そのため、報告がてら、途中経過を話させて頂きます。
まず、教会生活のことをお話します。
皆さんは私が母のおなかにいる時から、お祈りに覚えて下さっていますから、どのような教会生活が導かれているかは、知っていらっしゃると思います。私は、教会の先生方、兄弟姉妹、両親の祈りによって0歳の時に幼児洗礼を受ける恵みが与えられました。もうその時から、教会生活を意識する前に、既に教会に集うスタートが始まっていました。教会に集う兄弟姉妹は、「兄弟姉妹」という字のごとく、家族であり、教会は家のような感覚を幼い時からもっていました。
例えば、大人の礼拝では、聖歌の634番の『世のおわりのらっぱ』を最後に讃美し、椅子に立って指揮をして、喜びをもって礼拝を終えた後、赤ちゃんが居るサイドルームに駆け寄って、ひとりっこの私にとってそれは楽しい習慣でありました。その後は、同世代の子たちと靴下を丸めて集会室でサッカーをして、大人に「サッカーをしたいなら、外へ行って遊びなさい」と怒られて、公園でみんなとサッカーをした思い出があります。
そういった教会生活にある兄弟姉妹や同世代、小さな子どもと一緒に、とても楽しい日々が導かれ、これからもこのような教会生活を続けて行きたいという思いが信仰を告白する決心と当時は結び付きました。そのような中で、小学校5年生の時にゴスペルキャンプでひとつの聖書の箇所を知らされました。
「すなわち、自分の口でイエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」( ローマ人への手紙10:9)
この聖句、私の内にイエス様がいて下さって今も生きておられるという喜びが、小学生の私にとって認識できていなかったかも知れません。しかし、この御言葉を通して、神様とわたしが向き合うきっかけとなりました。 そして、受洗者講座を受け、信仰の歩みのための準備をしていました。しかし、こういった中で、私が予想していなかったことがありました。
それは、今ある、ぶどうの枝教会の新しい教会の歩みを出発することです。当時、中学生だった私にとってそれを受けいれることには、困難がありました。しかし、今、考えてみるとき、信仰を告白する時期において、それまでの母教会を離れ、新しい歩みの中で信仰告白へと導かれたのは、とても不思議に感じられます。
そして、中学2年生のイースターに信仰を告白する恵みが与えられました。この導きは、本当に自分の能力や知識、力、努力によって獲得するのではなく、神様からの恵みにより与えられ、信仰によって応答することができたと思います。
その恵みとは、幼い時から、先生方、兄弟姉妹、両親のお一人おひとりの祈りであると感じます。具体的には主日公同礼拝以外にも、早天祈祷会、会堂祈祷、水曜祈祷会、家族礼拝、と祈りを中心とする生活をしてきた歩みです。そのため新しい信仰と教会の歩みが導かれたことを確信しています。幼い時は、楽しい教会生活を続けたいがために信仰を告白したいと思っていました。しかし、その教会生活は、ただ楽しいのではなく、祈りによって私自身が平安の内にあったことを覚えさせられます。そして、信仰の告白に導かれたのは、それまでのまわりの仲間と一緒に成長することができたことにもよりますが、信仰告白は神様とわたしが一対一で向き合うことこそが大切だと、かつての母教会を離れて今、実感しています。
そして、今はキリスト教主義の大学へと導かれています。私は、キリスト教主義の学校には、幼稚園の時、通っていた聖書幼稚園以外では、入学したことがありませんでした。とても楽しみにして大学の入学を期待していました。そのせいか分かりませんが、今までにないくらい肩の力が入って、大学で友人ができたらイエス様のことを知ってもらいたいな、という思いでいました。 しかし、そこには大学生活を通して自分の力でどうにかしようとするような、動きがあったなと、今、1年の終わりにあたって感じています。 そのような中で与えられたひとつの聖書の御言葉によって、肩の荷が下りたように思います。
「31イエスはお答えになった『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。32私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』」( ルカによる福音書5:31〜32)
このみ言葉を通して、重荷から解放され、友人に対しては、ただイエス様が招いて下さっていること、私自身も恵みによって招かれ、イエス様が私を選んで下さったのだ、と確認することが出来ました。
どうか、わたしたちの大学に集います一人ひとりの友人に、イエス様に招かれていることに気づいてもらえるようにお祈りください。