2005年4月
証 『イースターの喜び』
聖書 コリントの信徒への手紙 二 5章16節〜21節
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
伝道会証し 「イースターの喜び」
イエス様が復活されたイースターを祝うことができましたことを感謝します。 様々なところにお住まいの方、それぞれ違った教会の方々と、はがきやメールで、また、お会いして「イースターおめでとうございます。」と喜び合えることは素晴らしいことだと思います。
私はクリスチャンでない方にも何通かお便りしました。なんだか解らないけれども喜んで下さる方、「イースターって何?」と聞く方等色々反応があります。もちろん、イースターカードを出す私を「変な人」と思っている方もいらっしゃると思います。でも、私はイエス様の復活の喜びを皆さんと分かち合いたいと思っています。
ぶどうの枝教会でもイースターのご案内をカードやメールでさせて頂きました。多くの方々が来会されました。子どもの礼拝後の「イースター・エッグハント」もお天気にも恵まれ、皆さんで楽しく過ごせたことを感謝します。
私がイースターを喜び、大切にしたいと思うのは、イエス様が十字架で死なれ、そして三日目に復活されたことによって、私は生きていることの本当の喜びを与えられたからです。
私は30歳の時にイエスさまを主と告白して洗礼を受けました。では、それまで喜びが無い暗い人生を送っていたのか、というとそうでもなかったように思います。何を矛盾したこと言っているのだと思われるでしょうが、私は30才までの人生でも人を憎むほど恨むということもありませんでしたし、嫉妬するほど人のことを羨んだり、また人と比較して劣等感に悩まされるということも経験せずに済んでいました。人生の躓きと言えば、20台の前半で両親を亡くしことです。
この時は、もうすでに社会人でしたから、両親が亡くなったといっても、明日からどうやって食べていくのかという心配はありませんでした。しかし、それまでの私にとって、親はすべてのことの解決者であり、私のすべてを受け入れ、わたしの期待を裏切らない存在でした。
「人はいつかは死ぬのだ」とわかっていましたし、親にも「おとうさんがいつまでも生きているわけではない。」と言われていましたが、現実に母に死なれた時はショックでした。親を絶対者にし、口では逆らうようなことをいいながらも、親が指し示す道を自分の人生の目的にしていた私にとって、親の死は「裏切り」でした。
本当はこの時こそ、「人が生きるとは何なのか」、「人とはどのような存在なのか」と考える良い機会だったはずです。しかし、「親に裏切られた」としか受け止められなかった私は、回りの人々が心配し、いろいろ気を使って下さることに対しても、その人々にもやがては「裏切られる」ということを前提として、彼らを受け入れることによって、自分がふたたび「裏切られた」と思わないで済むようにしていました。
ですから、他人に対して要求するもの、期待するものがないので、一見、楽しく人生を送っているように見えましたが、実は虚無的な、人生を斜に構えたような生き方をしていました。そこには生きる本当のよろこびはなかったのです」。
その後、クリスチャンであった夫と結婚をして、いわばお付き合いで、教会の礼拝に出席するようになりました。しかし、その時のわたしは、イエスさまが死なれたことをも、「当たり前なこと」と思い、「信じられることなど世の中に存在しない」、「永遠に生きることは在りえない。」と斜に見ていました。
そのうちイースターの礼拝に出席することになりましたが、それが嫌で、嫌でたまりませんでした。そこで意識的にイースターの礼拝を避けるようしました。その時の状況を振り返ると、トマスが復活のイエス様を決して信じないと頑なになっていたのと同じだったと思います。
ところが、イースターを避けているつもりなのに、なぜか毎年、イースターの礼拝に出席するはめになってしまいました。イースターが年によって日にちが違う為だとわかったのは、後になってからのことでした。
そのような私にイエス様は、御言葉にあるように息を吹きいれて下さいました。
「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが許せば、その罪は許される。だれの罪でも、あなたがたが許さなければ、許されないまま残る。』」 (ヨハネ20:22〜23)
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
( コリントの信徒への手紙 二 5:17)
新しく創られた私は、イエス様によって日々新しくされます。肉体は当然古くなるのですが、いつも希望の中に生きられます。死に勝利されたイエス様にあって永遠に生きられます。
昨日、私は、大好きであった姉妹の記念会と納骨式に出席しました。
「世の友われらを 棄て去るときも、祈りにこたえて 労わりたまわん」
(讃美歌312)
と賛美しました。かつては、この歌詞を「人から裏切られてもいい。」と強がる生き方として受け止めた時もありましたが、今回、イエス様がいつも共にいて下さることを、ひしひしと感じ、イエス様が共にいて下さるこの姉妹と、天においてまた再び会えるだけでなく、同じ様に生きることができる希望と喜びを感じました。
そして、納骨のときに「わたしたちのいやしい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくだるのです。」と聖書の御言(フィリピ3:20〜21)を頂きました。この望みにかなう生き方をしたいと願い、祈るものです。