イギリス人女性の側わん症手術体験記
"Adult Scoliosis Support Site"
Surgery Story of a British Lady
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DISCLAIMER
お断り
このHPは側わん症についての、私の個人的な体験を書いたもので、いかなる本、出版物、または団体とも関係がありません。また、私が受けた治療は、私にとっては正しい選択でしたが、このことは、同じことがあなたにとっても正しい選択になるという意味ではありません。このHPの目的は、現代の側わん症治療についての、とてもポジティブな体験を皆さんと共有することにあります。
このサイトの感想をいただけると嬉しいです。ここに書かれていなくて、皆さんが知りたいと思われることがありましたら、頑張ってお答えするようにします。連絡フォームを使ってメッセージを送るか、あるいは私宛てにメールを送ってください。現在、メッセージ・ボックスが少しトラブっているので、メールのほうがいいでしょう。これまでのところ、このHPの内容について、主にアメリカから、たくさんの励ましのメッセージをいただいています。あなたも是非送ってください。
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私たちのこと
こんにちは。私の名前はデビー・デントン。イギリスはサウス・ヨークシャーのドンカスターというところに住んでいます。私は遠い昔の1970年代に発症した側わん症を矯正するため、2000年2月のバレンタインデーの日に手術を受けました。
このHPを開設しようと決めた理由ですが、私は1999年に、インターネットで情報を集めてから、手術を決断しました。インターネット上の情報のほとんどはアメリカから発信されており(それが悪いという意味では決してありません)、私はイギリス人の大人の視点からの情報があれば役に立つのではないかと思いました。イギリス人の大人で、この手術を受ける人はあまりいないのではないかと思われたからです。また、術後の情報があまりないようにも思われましたので、これについての情報もたくさん含めたいと思いました。
詳しい話を始める前に言うのも何なのですが、私は他の大人の側わん症患者にも手術を受けることを勧めたいと思います。ちょうど1年余り前、70度の胸椎カーブを抱えていた私は、もう自分のこのカーブはどうにもできないのだろうと思っていました。カーブが進行しているのはわかっていましたから、将来のことがとても不安でした。今、私は手術からわずか8週間後に、この文章を書いています。手術ではステンレス製の金属棒を2本入れ、13個の椎体の間にボーングラフト(bone graft、骨のかけら)を移植しました。今や私は完全にまっすぐになり、背が2インチ(約5 cm)伸び、体調もとても良好です。手術後には装具をつけるのを予想していましたが、それもつける必要はありませんでした。もし、初めて手術を勧められた1978年にやっていたら、もっとずっと大変な経験をしていただろうと思います。
さて、私は自分の体験談を大きく3つに分けました。第1部、「はじめの頃」は、側わん症がわかった10代の頃から、1999年のはじめまでについて書いてあります。「決断」と題した第2部は、主に、私が医師の診断を受ける前に調べたことや、手術を受ける決断をどのようにして下したかについて書いてあります。第3部では、手術について詳しく記し、術後の体験も含めました。私自身、手術を受けるときや術後の回復期のことについてのアドバイスがほしい…と思いましたので、そのうちこうした内容も付け加えたいと思っています。このHPへの感想を歓迎します。メールを送ってくださっても構いません。また質問のある方には、できるかぎりお答えしたいと思います。
このページのあちこちにある蜂やひまわりの絵には、何か意味があるのだろうか…とあなたは不思議に思われるかもしれません。ご説明しましょう。「デボラ」という私の名前は、(ヘブライ語で)「蜂」という意味です。私はこれは自分にぴったりの名前だと思っています。というのも、私はいつも1つの場所から別の場所へと飛びまわっている、とても忙しい人間だからです。また、私は美しく、明るい花であるひまわりが大好きです。そして黄色は私の大好きな色でもあります。
自分のことをもう少しお話しましょう。私は歯科医で、特別なケアを必要とする子供や大人を治療しています。歯科医師の免許をとったのは1983年12月でした。夫のリチャードとは1984年に結婚しました。私たちには3人の娘がいます。シャーロット(1988年9月1日生まれ)、ハリエット(1990年8月22日生まれ)、そしてリディア(1994年2月25日生まれ)です。
私はキリスト教徒で、地元の福音派教会に通っています。
趣味はクロスステッチ刺繍(いつも何か作品を制作中です)、そして音楽などです。私はドラムを叩くのが大好きで、最近アイルランドのロックグループ、「エメラルド」にドラマーとして入ったばかりです。2000年8月下旬から初ライブが始まる予定で、今からわくわくしています。私の生涯の夢でもあったからです。
どうぞ読み進んでいってください。私は楽しみながら、この文章を書きました。あなたも楽しみながら読んでくださればうれしく思います。私はただ、この文章が助けになればと思っています、どこかにいる、だれかにとって…!
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若い頃
私が側わん症と診断されたのは、17歳だった1978年のときでした。私の体は14歳から17歳の間に成長し、残念ながら、診断された17歳のときには、すでに成長は終わっていました。私は胸椎型の特発性側わん症でした。簡単に言えば、胸の部分の背骨が曲がっていて、肋骨が変形して右側に飛び出ていたのです。17歳のときの角度は50度で、37歳のときには、さらに20度進行して70度になっていました。診断されたときの話は後にして、まずは私の問題が明らかになりはじめた1970年代半ばのことから話を始めましょう。
10代の頃、私は体操が得意で、あこがれのオルガ・コルブット選手といつか競い合いたいと思っていました。私は小さい頃から体がとても柔軟で、しょっちゅう側転や、宙返り、バック転などをやっていました。あるとき、私は教会の司祭の前で側転をしてみせ、母をひどくあわてさせたことがありました!体操は私にとって人生そのもので、毎日学校に行く前にジムに行き、昼休みにも練習し、また週3回は放課後も練習をしていました。学校の成績もよく、小さい頃から科学者になりたいと思っていました。14歳の頃、母が私の後ろ姿を写した写真があります。今から見ると、背中が少しばかり左右対象ではないことがわかります。でもそれはその後に起きたことを知っているから、わかることなのですが。
The School Gym
Team 1975
学校の体操部(1975年)
私の体形は体操選手として理想的なものでしたが、思春期に入った頃には、いくつか問題が出てきました。平均台の上で前転をすると、平均台から落ちてしまうようになったのです。私は体操チームに入っており、チーム演技の中に、馬跳びというのがありました。年長の女子(大抵は私でした)が、ひざの間に頭を入れて“馬”になり、別の女子が、この馬の上を飛び越えるのです。チームメイトからはいつも、私の背中が骨ばっていて跳ぶと変な方向に行ってしまうと、文句をいわれました。コーチにも、肩をまっすぐにするように、とよく注意されました。
母が私の体の異変に気づいたのは、ある日、母が私の後ろを歩いていたときでした。そのとき私は、後ろ身ごろの真ん中に縫い目のある、かなり体にフィットしたコートを着ていました。母は縫い目がまっすぐでないこと、また腰や肩が左右対称でないことに気づきました。私は体操をやめなければならないのではないかと不安になり、医者にいくのを拒否しました。体操選手は17歳までが花なので、私は残された時間を最大限に活用したかったのです!
The Diagnosis
診断
1978年の10月頃だったと思います。私はリーズ大学の歯学科に願書を出しました。私は親元から独立することで、とてもわくわくしていました。体操はまだ続けていましたが、勉強のほうがかなり忙しくなってきていました。すでに入学に必要な成績はとっていましたが、私はもっといい成績をとりたいと思って勉強していました。(そういう性格なんです!)いずれにせよ、ある日私は母と、ぜんそくの薬のことで、近くのかかりつけの医師のところに行きました。たまたま母が、私の背中の話を持ち出しました。私はそれまで背中のことを話題にすることは、一切拒んでいました。先生からは、すぐにウェールズ大学病院の整形外科にいくようにと言われました。私は、これは自分の問題だし、もう17歳なのだから病院には1人で行きたいと思いました。母は私が1人で行くことにひどく憤慨していました。でも、それが私のやり方だったのです。
長い時間待った後、診察を受けました。背骨と骨盤のレントゲン写真を撮りました。あのレントゲン写真を見る上で、どんなことも心の準備にはならなかったでしょう。本当に私の写真だろうか…?私は看護婦さんに、「しっかりして」と言われ、さらに「あなたのレントゲン写真だなんて信じられないわ」といわれたのを覚えています。先生は私のカーブを測りました。角度は50度でした。(今なら私はこの角度が、手術のボーダーラインの角度だということを知っています。)先生が私の頭蓋骨の下のほうを持ってひっぱり、同僚の先生に私の背骨を見るようにと指示しました。体をひっぱっると、背骨は明らかにまっすぐになりました。先生は私に治療の話をしました。でも明らかに、先生は私とではなく、親と話したがっている風でした。もう成長が終わっていたので、装具療法は選択肢ではありませんでした。(「よかった!」と私は思いました。)唯一の選択肢は、私の記憶が正しければ、骨盤から削ってきた骨を背骨のカーブしている部分に移植し、手術後1年間はギブスをつける、脊椎固定手術という、聞いていてなんとも気分が悪くなる手術でした。まだこれから人生が始まり、前途に冒険、大学、仕事、結婚、子供…が待ちうけている10代のときに、こういう話を聞いたのです。私はそんな大がかりな手術など受けたくないと思いました。なぜなら、そのときの私は、これは単に外見上の問題だと思っていたからです。それから2週間後、今度は両親と一緒に病院に行きました。私は、手術はしたくないと先生にいいました。先生は、カーブは1年に1度くらいの割合で進行していくよ、と言いました。そのときは、そんなこと大したことがないように思えました。しかし時がたつうちに、これは大変なことだと思うようになりました。また、別の医師の診察も受けましたが、その先生には、骨の成長が終わればカーブは進行しないと言われました。私はひどく混乱しました。
University and
Men !!!
大学、そして男性!!!
大学に入るのに必要なAレベルの成績を簡単にとれた私は、1979年にリーズ大学に入学しました。大学での最初の1年間は、本当に楽しいものでした。とりわけ「解剖学」の授業は楽しかったです。あの長ったらしいラテン語も好きでしたし、神経系統や筋肉の図も好きでした。なんという科目でしょう!私は自分が医学ではなく歯科学の専攻だったことをうれしく思いました。なぜならもし医学を専攻していたら、側わん症のことも勉強しなければならなかったし、私にはそんなことは耐えられなかったと思うからです。私はフィルという名前の医学生と付き合うようになりました。私は彼に自分の背中の話をしました。彼はかなり興味があったようでしたが、気にする様子ではありませんでした。私は、相手に気づかれてから説明するのがいやだったので、自分の周囲の人にはかなりオープンに自分の問題を話してしまいます。フィルとはやがて疎遠になりましたが、友達としての付き合いは続きました。大学2年のときは彼氏がいなかったので、かなり退屈でした。私は自分の側わんを気にするようになり、背中を隠すような服装を心がけるようになりました。これは年をとるにつれて、とてもうまくなりました。大学に入ったばかりの頃、タイトなTシャツを着て写っている写真があります。年をとるにつれ、私は上にジャケットを着ないかぎり、体にフィットしたものは絶対に着ないようになりました。3年生のとき、やがて結婚することになる、リチャードに出会いました。彼は同じ歯学科の同級生でしたが、2年生の終わり頃まで私たちの道が交わることはありませんでした。私は友人何人かと一緒に家を借りて住んでいたのですが、私のハウスメイトの1人が付き合っていた相手がリチャードの友人で、ハウスメイトの彼氏とリチャードとが、私たちの向かいの家に引っ越してきたのです。リチャードも私の背中のことは気にしませんでしたし、また一度も気にしたことはありませんでした。だから何だ、ただ背中がちょっと曲がっているだけじゃないか、大したことじゃないよ、という感じでした。(恐らく正しい態度だと思いますが、私は同感できませんでした。)
Early Married
Life
結婚初期の頃
1983年12月に、私は歯学科を卒業しました。リチャードはドンカスターにある診療所に就職し、私たちはそこに居を構えました。私はコミュニティー歯科の仕事を探していました。当時私はまだ車の運転ができなかったので、地元で仕事を見つけたいと思いましたが、見つけられませんでした。1985年10月まで診療所で働き、その後ようやく、ドンカスターの健康局で、希望していた仕事につくことができました。1984年6月、私はリチャードと結婚しました。結婚式のビデオは撮りませんでした。もし撮っていたら、私はビデオを見ながら、ずっと自分の背中ばかり見ていたでしょう。私は結婚式の記憶を完璧なものにしておきたかったので、きちんとポーズをとった写真を撮るほうを選びました。この頃、私は洋服とショッピングに走りました。私は生まれて初めて、自分をきれいに見せる洋服を買うお金を手にすることができたからです。ほどなくして、ワードローブは洋服でいっぱいになりました。タイトでも、フィットしすぎでもない、仕立てのいい、高価なジャケットがたくさん。 忌むべき背中のことを忘れさせてくれる上で洋服と社交的な性格は私にとって、とても重要なものだったのです!
Pregnancy
妊娠
私はずっと子供が欲しいと思っていました。1987年の冬になり、リチャードもようやく子供を持とうという気になってくれました。避妊をやめ、ほどなくして私は妊娠しました。私はずっと前から、シャーロットという名前の娘が欲しいと思っていたので、女の子だったらいいなと思っていました。不思議なことに、妊娠期間中は、あまり背中のことは気になりませんでした。だんだんおなかが大きくなってきて、中で赤ちゃんが動いているのが感じられるのが、うれしくてたまりませんでした。恐らく妊娠中は姿勢が変わったので、側わん症のことがあまり気にならなかったのでしょう。1988年9月に長女シャーロットを出産しました。鎮痛剤も使用せず、自然分娩でした。出産直後は背中の調子は良かったのですが、翌年になるとひどく痛みだしました。多分、背中のじん帯が妊娠していない状態に慣れ始めたのでしょう。また1日中赤ちゃんをだっこしていたのも、よくなかったのでしょう。私はもう10年も背骨を診てもらっていないことに気づき、病院に行かなければ…と思いました。
Hospital Referral
1989
病院へ(1989年)
この頃、TVで「Your life in their hands(あなたの命を委ねる)」というシリーズものの番組を見ていました。ある日、「曲がった背骨」についての番組の中で、私にそっくりな側わん症の少女が出てきました。彼女は背骨を延ばすために、背中に金属棒を入れる手術を受けていました。手術によって、背骨はまっすぐにはならなかったとはいえ、十分大きな違いを生み出していました。手術からわずか6ヶ月後、ほれぼれするほどまっすぐな背中をした彼女がプールに飛び込む映像がとても印象的でした。私はかかりつけの医師のところに行き、TVに出てきた医師を紹介してくれるよう頼みました。私はあの先生に診てもらいたいと思いました。そして専門家に、私の側わん症が長期的にどうなるのか予測してもらい、もしカーブが進行しているようなら手術を考えたいと思いました。このときの診察は、私の人生において、もっとも屈辱的で非人間的な経験でした。医師のほかに、男子医学生が6人ほどいました。自分の不安を話すように、と言われた私は、言われたとおりに思っている不安を話しました。その後、小さな部屋に行き、下着1枚になるようにと言われました。先生は医学生を連れて部屋に入ってくると、私の背中の右側にあるリブハンプや、カーブのために腰や肩が左右対象でないことについて説明し、これは「こうした人々(these people)」の典型的な外見的特徴だと言いました。さらに先生はレントゲンを撮る必要はないと言い、私はとても変だと感じました。それから先生は、私が大変驚くことを言いました。私のカーブは進行していない、またもう成長が終わっているので、これ以上進行することもない、腰痛も、背骨がまっすぐな人と同じくらいしか経験しないだろうと言ったのです。これは私が1978年に言われたことと矛盾しているように思われましたし、レントゲン写真も撮らずにどうしてそういう推測ができるのだろうと疑問に思いました。とはいえ、私はある種「安心」し、さらに2人の女の子−−1990年に次女ハリエット、1994年に三女リディアを出産しました。いずれの妊娠も出産も、何も問題はありませんでした。
My Thirties
30代の頃
時は流れていきました。子供たちは成長し、学校に通い始めました。ベビーシッターを雇い、私は1996年にフルタイムの仕事に戻りました。 私は30代を謳歌しました。 とてもたくさんの変化がありました。 母親としても、仕事の面でも充実していました。 工芸、手芸、そして音楽といった、たくさんの趣味でいつも忙しくしていました。33歳からピアノを始め、36歳からドラム(これは本当に大好きです)を始めました。 私はドラムが好きです。 あのリズムと演奏。とくに、大好きなバンド、「ジェネシス」の元ドラマーのフィル・コリンズは、私の体の中を流れる血のようだと感じます。私は昼休みの外出ついでにドラム・セットを買ってしまうという、突拍子もない行動をしてしまうことがありましたが、これは私の背中に原因があったのかもしれません。 側わん症は、私を精神的に強くしたでしょうか? 多分強くしたのではないかと思います。 この頃、私を気落ちさせた出来事が2つほどありました。1つは、私のおいっこの誕生パーティーでのことでした。 このとき私は、だぼだぼのTシャツに、バイク・ショーツを着ていました。 私が、今でもバック転ができるのよ、と言ってやってみせたとき、義理の兄(弟)がおびえた顔をしながら、「ひゃあ〜、一体全体その背中はどうしたんだい?!」と大きな声で言ったのです。 もう1つは、ブラジャーの試着をしたときでした。 私は以後、2度とお店でブラの試着はしなくなりました。 店員の女性が私の背中について、失礼なことを言ったのです。 私は胸椎部分の特発性側わん症なのだと説明して、店員をだまらせました。 私は自分の側わんを隠すのがとてもうまかったので、他の人たちは私の側わん症にほとんど気がつきませんでした。 それだけに、こうした出来事はとても珍しいことでした。
おもしろいもので、人間、30代後半くらいになると、もっと先のことを考えるようになります。17歳のときには、せいぜい5年先くらいまでのことしか考えらないものです。 リチャードは、退職後の生活について、すてきなプランを考えていました。彼は私がゴルフを始めるだろうと思い、私にゴルフ・クラブを買ってくれました。私には別のプランがありました。もっとドラムを練習して、1970年代や80年代の歌を演奏するバンドに入ることでした。また、キャンピング・カーにも惹かれ、キャンピング・カーに乗りこんで、「さあ、これから1ヶ月間、ヨーロッパを回りましょう!」という光景も夢見ました。
Early January
1999
1999年1月初め
1900年代最後の年になり、これ以上若くなることもないし、そろそろ背中のことをどうにかすべきではないか…という思いが募ってきました。正直なことを言えば、背中のことを考えない日は1日もありませんでした。側わん症のせいで、やろうと思ったことをあきらめたことはありませんでしたが、それでも側わん症のせいでひどくいら立つときはありました。体にフィットした洋服が流行の時代に、自分が着られる洋服が一着もなくて、店から泣きながら出てきたこともありました。
私はインターネットで側わん症について調べ始めました。(それまでは怖くて調べられなかったのですが、新しい年が、私の気持ちも切り替えさせてくれたのです!) そして、1984年にWeinstein 氏と Ponsetti 氏が、側わん症の成人123人を、40年間にわたって追跡調査したという研究を見つけました。 その結論は、「骨の成長が終わった後も、68%の人は進行する」というものでした。一般に30度未満のカーブは進行しないが、骨の成長が終わった時点で50度〜75度だった人、とりわけ胸椎カーブの人はもっとも進行しやすい、というものでした(注)。17歳のとき、私の胸椎カーブは50度だったので、単純計算でも、今では65度になっていることになります。 私はこの調査結果を読んで、ひどく不安になりました。私は、主にアメリカ人が参加している、側わん症患者の交流掲示板を訪れました。そこで、45歳で側わんの手術をした女性の投稿に行き当たりました。手術前の彼女の角度は123度でした。彼女にメールを送ると、返事が来ました。 私は彼女の体験談をとても興味深く読みました。私はイギリス国内の側わん症手術の専門家を探し、シェフィールドにダグラス先生という整形外科医がいることを知りました。この先生が、私の希望の綱のように思えました。 かかりつけの医師のところにいき、以前より身長は縮んでいるし、洋服で隠すのも難しくなっている、側わん症は絶対に悪くなっていると思うので、ダグラス先生への紹介状を書いてほしいと頼みました。 かかりつけの医師は、一般医宛てに配布された側わん症についての通達文をすべて読んでくれました。 その中の1989年に出された通達があり、これが結論のように思えました。それによれば、私のカーブは良性なので進行しない、ただし腰椎カーブであれば話は別だ、というものでした。これは私がインターネットで見つけた研究結果と矛盾するように思えました。 私はダグラス先生に会いたい、もう1989年のときの体験を繰り返したくない、だれか私の話に耳を傾けれくれる人、私を助けてくれる人に見てもらいたいと頼みました。
(注):現在では胸椎カーブより腰椎カーブのほうが下のほうにあるため、より多くの負荷がかかり、進行しやすい、とされている。(Nancy Schommer "Stopping Scoliosis," 2002, p156)
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決断
私はこの日をとても心待ちにしていました。 シェフィールドのクレアモント病院に着いたのは、予約の午後4時よりずいぶん前でした。ついに助手の人が私の名前を呼びました。 ダグラス先生は私を歓迎し、握手をしてくれました。 私は直感的に、今回の診察は今までのものとは全く違うものになるだろうと感じました。 先生は、私が自分から希望して、かかりつけのマチン医師に頼んで紹介状を書いてもらったこと、側わんが進行しているのではないか、また将来を不安に思っていることを確認しました。 私は先生とゆっくりと、また和やかに話し合いました。 先生は私の側わん症歴すべて、そして今まで受けた治療やレントゲン写真について尋ねました。先生は私が1978年から全くレントゲン写真を撮っていないことに驚いた様子でした。 先生は私の子供たちとその年齢について尋ね、また私の痛みの状況やその場所について尋ねました。私は先生に、背中の右の肋骨のあたりがよく焼けつくように痛むが、大抵の場合はそれほどひどい痛みではないと答えました。 また、とりわけ患者さんを大勢診た日の終わりには、肋骨の痛みとは反対側の、左側の腰が痛くなるとも言いました。 先生は、「痛みのせいで仕事に支障をきたしたことはありますか?」と尋ねました。 私は、背中や腰の痛みのせいで仕事を休んだことは1回もないが、これは多分私がかなりストイックな人間で、どんな理由であれ仕事をめったに休まないせいかもしれない、と答えました。 私は自分の病歴の一部を書いた紙を先生に渡し、先生がそれを読んでいる間に着替えをしました。私が先生に、側わん症の大人の人は大勢治療されているのですか?と尋ると、先生は、そうでもない、そもそも大人はあまり来ないからね、でも10代の子は大勢治療している、と答えました。
私が着替えている間、先生は私が若い頃体がとても柔軟だったことに注目し、体が柔軟な人はじん帯がゆるく、そのため側わん症になりやすい場合があるといいました。 先生は私につま先に手が触れるよう前屈するように、その後、左右に体を曲げるようにと指示しました。 先生は、私の背骨は今でもとても柔軟で、動きの幅が大きいと言いました。先生は私の骨盤に触り、肩との関係をチェックしました。 骨盤の左側の上の部分が、肋骨の一番下の骨に触りそうになっているようでした。これには私は驚きました。 というのも、私はもう何年も、目一杯背伸びをしない限り、肋骨の下の部分など意識したことがなかったからです。 先生は私に診察台の上に横になるようにと言い、私の手足を引っ張りました。 私は自分の腕と足をひどく伸ばすことができましたが、これは体が柔軟で、じん帯がゆるいことを意味していました。 それから私はうつぶせになり、ベッドの上の端をつかむようにといわれました。先生は私の体を伸ばすために両足をひっぱり、私はまるで映画「ブレーブハート(Brave Heart)」の終わりのほうで、拷問されるメル・ギブソンのような気分になりました! しかしこの姿勢でいると、肩と腰とが平行になるのが感じられました。明らかに、先生はただ引っ張るだけで、私の背骨をかなり伸ばすことができていたのです。これはその後の治療の点から言えば、良い知らせでした。
私が洋服を着ると、ダグラス先生は、私の背骨は牽引するだけでまっすぐになるので、背骨が動くよう、カーブ部分の椎間板を抜かずとも、外見をかなり改善することができ、術後の長期的な予後もいいだろうと言いました。(椎間板を抜くためには、体を大きく切開し、「前方固定手術」と呼ばれる手術方法を行い、2週間後に「後方固定手術」と呼ばれる手術を行い、動くようになったカーブ部分を金属棒で固定するのです。)ダグラス先生は、私は後方固定手術だけでよいだろう、ただし最終的な判断は、いろいろな姿勢でレントゲン写真を撮るまでは下せない、と言いました。先生は、私がすべての治療を自費で受けたいと思っているのかどうか、知りたがっている様子でした。 先生は、シェフィールドのノーザーン・ジェネラル病院にNHS(注)の側わん症クリニックがあるといいました。私は、設備の整った大きな病院で手術をしたいと言いました。私は先に進みたいと思っていたので、必要なレントゲン写真はクレアモント病院で撮り、夫と一緒に相談を受けたいと言いました。 また手術の前には、MRIや他の検査が必要だし、どちらでやるにせよ順番待ちのリストに載せられるのだから、急ぐ必要もありませんでした。3週間後の予約を取りました。 先生は最後に、何かしたほうがいいだろう、恐らく後方手術でいいだろうが、まずレントゲン写真を見なければはっきりしたことは言えない、と言いました。
(注)NHS=National Health Service, 「国家医療制度」:イギリスの医療サービス・システム。主に税金でまかなわれており、患者は所得に応じて、低価格で医療サービスを受けられる。医療内容もよいが、順番待ちが長く、診療時間も短い。一方NHSを外れて医療サービスを受けると、それほど待たず、またゆっくり診療を受けられるが、全額自己負担になる。デボラさんは、このダグラス先生との診察は自費で行い、手術はNHSで行った。(本人からの説明。)
Thursday 18th
February 1999
1999年2月18日(木曜日)
リチャードが午後の休暇をとり、私の診察についてきてくれることになりました。私たちはシェフィールドまでドライブ気分で車を走らせました。道中、彼はずっと、その日の午前中に口論になった患者さんの話をしていましたが、私は半分くらいしか聞いていませんでした。私は不安と期待が入り混じった気持ちでした。1989年に病院にいったときほどの不安はありませんでした。というのも、今回の結果は以前とは違ったものになることは明らかだったからです。私はカーブが進行していて、明らかに手術が必要だという状況になるのを、ある種、期待していました。私はレントゲン室に行き、5枚の写真を撮りました。普通に立った姿勢で後ろから、そして立った姿勢で横から。それからテーブルの上に横になり、1枚は右側に、もう1枚は左側に体を曲げて…と合計2枚撮りました。最後に、私がテーブルの端を持ち、女性が私の足を思いっきり引っ張った状態で写真を撮りました。(メル・ギブソンにも負けないでしょう!)
すべてのレントゲン写真ができあがると、私は洋服を着て、リチャードとともにダグラス先生の診察室に向かいました。先生は立った姿勢でのレントゲン写真を取り出し、ちょっと特殊な分度器を使って、角度を測りました。70度でした。私のカーブは良性で進行しないという診断とは、もうこれでお別れです!私は角度を聞いても驚きませんでしたし、これで決断が簡単になるだろうと、うれしくさえ思いました。もし手術をしなければ、私の将来はかなり暗いものに思えました。カーブはどんどん進行し、身長は縮み、背中の痛みはひどくなり、心臓や肺が圧迫されてもっと深刻な状況になるかもしれません。もしかしたら早めに退職し、憂うつなおばあさんになるかもしれません。レントゲン写真の中で一番驚いたのは、足を引っ張ってもらって撮った写真で、カーブがほとんどなくなっていました。この写真から、後方固定手術のみで背骨をまっすぐにできることがわかりました。良い知らせは次々と続きました。先生は第3胸椎から第3腰椎まで固定することになるが、これは側わん症の矯正手術としてはよくあるもので、ここ10日間で同じような手術を3件やったとおっしゃいました。 先生はさらに、将来背中や腰の痛みに悩まされる確率について説明しました。第5腰椎まで固定すれば、将来問題が起こる確率は85%、第4腰椎までなら確率は65%、しかし第3腰椎までなら、将来問題が起こる可能性はわずか20%だということでした。
リチャードが合併症の可能性について質問しました。もっとも深刻な合併症である麻痺は、手術中、足に電極をつけ、常時脊髄をモニターすることによって防げるということでした。もし手術中、背骨を伸ばしすぎて脊髄にプレッシャーがかかりすぎ、モニターに何らかの異常が表れた場合には、矯正率を少し下げるということでした。先生は側わん症の手術で麻痺が出たケースは今まで1件だけで、それは重度の先天性側わん症の子供で、私のケースとはかなり異なると言いました。 その他の合併症としては、金属棒を抜くことが必要による炎症ですが、これもこれまで1件だけだったということでした。 麻酔による一般的なリスクについては、私も仕事柄十分知っていたので、説明されるまでもありませんでした。 どうやら、手術をしないで側わん症が進行してしまうことによるリスクよりも、手術によるリスクのほうが少ないように思われました。自分の状況がこのように提示されたおかげで、決断を下すのは容易になりました。 先生は私を助けることができ、そして助けたいと思っているように感じられました。手術によって私は背が伸び、カーブが伸び、体が固くなるでしょう。でも体が固くなることなど、どうでもいいことでした。私はもう体操選手ではないし、ドラムを叩くのに柔軟な背骨は必要ないですから!ただ、仕事中の姿勢は少し変えなければならないようでした。 私は患者さんの口の中を見るときに鏡を使わず、直接目視でやっていました。これはいずれにしてもあまりいい姿勢ではなかったので、変えることに問題はありませんでした。
私は先生にすでに心は決まっている、手術をやりたいと言いました。入院期間は7〜10日間で、12週間は仕事を休む必要があるということでした。手術時間は、約3時間半の予定でした。また私はやせているので、後日、ロッドの上のほうを調整することが必要になるかもしれないといわれました。 また、側わん症による肋骨の変形を直す、「リブプラシー(thoracoplacy)」という手術が必要になるかもしれないが、この手術は純粋に外見を改善するためだけの手術だということでした。
私は手術待ちのウェイティング・リストに載せられました。手術は12〜15ヶ月後の予定でした。それまでに腰椎の下のほうの椎間板の状況を見るためのMRIを撮り、さらに手術の約1ヶ月前には血液検査、さらなるレントゲン撮影、肺機能検査、そして麻酔科医との打ち合わせなどといったことが必要でした。私は手術が待ちきれませんでした。もう曲がった背骨はたくさんだったし、過去のことにしてしまいたかったのです!!!!
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手術
ついに手術日を知らせる手紙が届きました。私が2000年になって、初めて受け取った手紙でした。待ちに待った手紙だったのに、私は手術日が思っていたより早いのに驚きました。日にちは2000年2月14日、バレンタインデーでした。リチャードと私にとって、思い出がたくさんある日でした。私たちは1982年のこの日に初めてデートをし、翌年の同じ日に婚約したのでした。手紙には、手術前の検査の日にちも書いてありました。
February 2000
2000年2月
手術前の日々、とくに直前の1週間は何とも不思議な、超現実的な日々でした。私は残っていた有休をすべてとり、5月の終わりまで楽しく過ごすことにしました。今振り返ってみると、これはあまりいいことではありませんでした。というのも、時間がたくさんありすぎて、私は自分の中に引きこもるようになってしまったからです。ちょっとしたおしゃべりにも興味がなくなり、頭の中ではいつも同じことを考えていました。ただ手術直前の週には、いいこともしました。背中、肩、腰、腕も含めた、心地よい美顔マッサージを受けました。また、まつげにカラリングをし、まゆげの形を整えてもらいました。リチャードが新しいゴルフ・クラブを買ってくれ、私たちは5ホールほどコースをまわりました。ゴルフをするには寒く、風も強すぎたので、5ホールしかまわりませんでした。またドラムの追加レッスンも受けました。ちょうど、とても気に入った曲を習っていたところで、次にいつドラムのレッスンを受けられるかわからなかったので、その曲のレッスンを終えておきたいと思ったのです。
やがて入院の日、2月13日の日曜日がやってきました。午前中に家族全員で教会に行きました。礼拝の中で、私と私の家族のために祈りが捧げられ、胸に込み上げるものがありました。リチャードと一緒に子供たちを義理の両親のところにあずけ、病院に着いたのは午後4:30頃でした。私はテレビ付きの個室をあてがわれたことに満足しました。部屋に落ち着くと、気持ちも落ち着いてきて、私はリチャードに「まるで休暇に来ているみたいね」と冗談を言いました。入院に必要な手続きを行い、血圧、脈拍、体温を測定すると、いよいよリチャードとお別れの時が来ました。私たちはかなり感傷的な別れをしました。夫は翌朝、私が手術室に向かう前にまた来てくれることになっていました。
その晩、ヨウ素のアレルギーがないか調べるため、腕にパッチ・テストをしました。翌日、はがしてみると、その部分は赤く膨れ、かゆみがありました。私はそれまで何のアレルギーもないと思っていたので、驚きました。
Monday 14th
February
2月14日(月曜日)
意外なことに、その晩はかなりよく眠れました。午前6:15に起こされ、早い朝食を食べました。次にいつ食事が食べられるのかは、わかりません。私は食べられないことは構わなかったものの、温かいお紅茶が飲めないのは残念に思いました!
午前8:30頃に、女性の麻酔科医2人がやってきました。そして、これからの手順や、目がさめるとき、どういうチューブにつながれているかについて説明を受けました。患者が自分で鎮痛剤を注入するPCAボタン、点滴のほかに、膀胱にはカテーテルを、また手術中の血圧をチェックするために股間に動脈内カテーテル(arterial line)を入れるということでした。明らかに、この手術には大量の出血がつきものなので、できるかぎり血圧を下げておこうという意図でした。動脈内カテーテルについては、かなり詳しく説明されたので、きっと痛いものなのだろうと思いました。また手術室で排液管を2本ほどつけるということでした。麻酔科医は、私は4時間ほどうつぶせに寝ることになり、のどにET管を入れるので、目がさめたときにはのどが痛み、顔がつぶれたようになっているだろうと言いました。さらに、今、痛みを緩和するために脊髄周辺の液に直接ジアセチルモルヒネ(diamorphine)を注入する臨床試験を行っているが試験に同意してくれるか、と尋ねられました。(これは私にはいい提案なように思え、食塩水(saline control)よりもジアセチルモルヒネを使ってくれるようにと頼みました。)彼女は、11:30頃に来るであろう医学生宛てにメモを残し、部屋を出ていきました。
私は驚くほど落ち着いていました。きっと今、大勢の人が私のために祈りを捧げてくれているのだろうと思いました。その日のお昼頃の出来事は、あまり覚えていません。リチャードに何か話そうとしたこと(夫は11:40頃、やってきました)、そして麻酔前に投与する薬のせいで、ひどく眠かったことを覚えています。麻酔室で麻酔科医に会い、ダグラス先生がドアから顔をのぞかせて、あいさつしていったのをなんとなく覚えています。心電図用の紙が私の胸の上に置かれ、手の甲のところにちょっとひっかかれるような感じがしますよ、と言われました。そこまでです。…月曜日のその後のこと、火曜日のことはほとんど記憶にありません。水曜日までのことは、リチャードが教えてくれたことでつなぎ合わせた、断片的な記憶があるだけです。
それから4時間、ダグラス先生と助手のレイ先生は、背中の筋肉すべてを剥ぎとり、私の脊椎に到達しました。カーブ部分の椎体(第3胸椎から第3腰椎までの13椎)すべてから、骨の一番外側にある皮質骨(cortical bone)が取り除かれました。 皮質骨を取り除くのは、ボーン・グラフトを移植するためです。ボーン・グラフト用の骨は、「ボーン・バンク」からもらいました。ボーン・バンクには、骨盤やひざの骨が不用になってしまった人たちから提供された骨が貯蔵されています。脊椎の両側に2本のステンレス製のコロラド式ロッド(Colorado Rods)が設置され、9個の大きなネジによって脊椎に固定されました。後で知ったのですが、ネジの直径は6.5mm、長さは50mmでした。2本の金属棒は、棒の上端と下端にある2本の十字によってつながっていました。カーブが前と横から矯正されただけでなく、ねじれもとれました。
High Dependency
Bay
集中治療室
私は集中治療室で目がさめました。周りにが大勢の人がいました。最初にリチャードの姿が見えたのを覚えています。彼が「あんなにすごい手術をしたわりには、とても元気そうに見える」と言っているのが聞こえました。腕にはチューブが2本つながれており、左腕のチューブには、私の血液型であるA型、Rh+型の血液が輸血されていました(そう、血液型はちゃんとあっていました。私は間違えるのではないかと心配だったのです)。右腕のチューブからは、水分補給のための食塩水とブドウ糖が入れられていました。また右手には、私がPCAボタンを押せば、モルヒネが注入されるようになっていました(注)。ただし、5分に1回以上は注入されないようになっていました。また傷口に2本のチューブがつながっており、まだこの時点では私はかなり出血していたようでした。看護婦さんが来て、輸血の速度を上げました。血圧が上80/下40になっていたからです。酸素マスクもついていましたが、私はこれを何度もはずしてしまっていました。膀胱にはカテーテルもついていました。私はPCAボタンを押した記憶がないのですが、それでも記録を見ると、何ミリリットル使用したか、どのくらい頻繁にシリンジを交換したかが記録されていたので、かなり押していたようです。今、振り返ってみると、リチャードは私がこのような状態になっているのを見て、とても心配したのではないかと思うのですが、彼によれば、病院のスタッフがとても落ち着いていて、いつも通りの仕事をやっている様子だったので、心配していなかったそうです。
(注)「PCAボタン」=Patient Controlled Anaesthesia:鎮痛剤を体内に注入できるよう、患者が自分で押せるボタン。
翌日(2000年2月15日)は、話が全く別でした。今から思うに、最悪の日だったろうと思います。私はひどく混乱し、とても眠く、まぶたも顔もひどく腫れあがっているのがわかりました(手術後に顔が腫れあがるのはよくあることです)。この時点では、痛みはあまり感じずにすみました。というのも、私はかなり頻繁にPCAボタンを押していたからです。ときどき吐き気がしましたが、ひどく気分が悪いというほどではありませんでした。この日、リチャードは1時間だけ来てくれましたが、私は話すような気分ではなかったので、彼に帰るようにと言いました。それでも私は何とか、だれだれに電話してとか、あれをやっておいてなど、彼にいくつか頼みごとをしました。
ヘモグロビン量と血圧がまだとても低かったので、この日もさらに2パック分の輸血をしました。結局全部で6パックの輸血をしました。その日の遅く、ダグラス先生が、この手術では、大人のほうが筋肉が骨にしっかりとくっついており、剥ぎ取るのが大変なので、出血量も多いのだと説明してくれました。
Wednesday 16th
February
2月16日(水曜日)
水曜には、かなり人間らしい気分になってきましたが、まだ動くのはとても恐怖でした。でも、私の体をひっくり返しに来てくれた看護婦さんたちによれば、私は自分で体を動かして、少しばかり彼女たちの手助けをしたのだそうです。この日は、レントゲン室までの旅が予定されており、運がよければ、個室に戻れるはずでした。腫れあがっていた目の腫れも少しひきはじめ、私は自分の外見と髪が気になり始めました(回復しはじめている兆候でした)。私は自分の新しい体を調べ始めました。(リチャードが言うには、私は手術台から戻ってきた直後にすでに自分の体を点検していたというのですが、私は全く覚えていません。でも彼の言葉を信じましょう。)胴体の左側がずいぶん長くなったのがわかりました。一番驚いたのは、リブ・ハンプがなくなっていたことです!すばらしい体になっていました!
その後の2日間の間にチューブが取れました。点滴は2本ともとれましたが、左腕についていた点滴はまた必要になったときのために手元に残されました。つまり、PCAボタンがなくなってしまったのです(今思うに、少し早すぎたように思います)。カテーテルと傷口からのチューブはまだついたままでした。痛み止めには、主にジクロフェナク(Voltarol ( Diclofenac ))とパラセタモール(Paracetamol)が使われることになり、合間に、必要に応じてジヒドロコデイン(dihydrocodeine)を使うことになりました。私はジクロフェナクがかなり強い鎮痛剤であることを知っていたので、これが効いてくれることを願いました。その晩は、寝返りのために起こされたのと、体温や血圧、カテーテルなどの状態を見るために起こされたのを除き、ぐっすり眠りました。
Thursday 17th
February
2月17日(木曜日)
この日は、いい日でした。私は自力ですばやく寝返りを打つ方法を編み出しました。両腕で体をさっと押し上げ、同時に体をくるりとまわすのです。夫と子供たち以外の訪問客が初めて来てくれました。義母は私がとても調子よさそうなので、驚いていました。通っている教会の牧師も来てくれ、とても励まされました。教会の人たちはとてもよくしてくれました。何人かの女性が手分けして食事を作り、毎晩、我が家に届けてくれたのです。この日私はまだベッドに横になっていましたが、もし理学療法士が来ていたらきっと起きあがっていたのだろうと思います。私は来てくれなくてよかったと思いました。なぜなら、私はどうやって起きあがったらいいのか、全くわからなかったからです!背中のチューブが取れ、お小水用のカテーテルはクリップ式のものに取りかえられました。この晩、少し熱が出て、私はパラノイアに陥りました。金属棒が炎症を起こしはじめている兆候ではないかという不安にとりつかれ、ほとんど眠れませんでした。痛みもひどくなっているように思え、どんな体勢になっても心地よくなれませんでした。痛みというのは、表現するのがとても難しいものです。なぜなら、痛みの感じ方は人によって全く違いますから。ただ、このときの私の痛みを表現するとしたら、まるで大きな巨人に背中の真ん中あたりを足でぎゅーっと押しつけられているようだったとしか言いようがありません。そしてその感覚がずっと離れませんでした。
Friday 18th
February
2月18日(金曜日)
この日は術後、初めて座った日でした。ベッドが45度の角度に起こされました。最初は少しくらくらしましたが、やがてふらつき感はなくなりました。理学療法士が来て、ベッドからの起きあがり方を教えてくれ、病棟の入り口に行って帰って来るという散歩に連れて出してくれました。足元がとてもふらつきました。すぐに、ずいぶん背が高くなったことに気づきました。ベッドから解放されるのはすばらしいことでした。また実際、横になっているよりも歩いているほうが、痛む背中に圧力がかからないためか、楽でした。カテーテルも取れ、私は自由な人間になりました。もうチューブはない。最後のチューブから解放されたのです。もはや私を止めるものはありませんでした。私は病棟とその周りを探検しようと思いました。(ただしもちろん、その前に髪の毛を洗わないと!優先順序を間違えてはいけません!)私がいた病棟は、脊椎を損傷した患者用のものでした。やがて私は、わずか数日で病棟を歩き回れるようになった自分は、本当に運が良いということを知りました。病棟内の患者さんの中には、治療やリハビリのためにもう何ヶ月も入院している人もいました。回復している人もいましたが、ほとんどの人はもう2度と歩けないという人たちでした。あまりに元気で健康そうな私が病棟の中を歩き回っているのを見て、一体彼女は何をしているのだろうと不思議に思われたことでしょう。私は2人ほどの患者さんに、自分の事情を話し、手術前と手術後のレントゲン写真を見せてあげました。レントゲン写真はとても感動的でした。とりわけ、ネジが見える横向きの写真は!その晩、リチャードと子供たちが巻尺を持って、病院にきました。私の身長は5フィート3インチ(約160cm)になっており、ちょうど1.5インチ(約3.8cm)身長が伸びていました。しかし不眠になってきて、この晩もほとんどよく眠れませんでした。どうにかして解決策を見つけなければなりませんでした。私は自宅にあるTENS器(電子マッサージ器)が、出産のときにとても役に立ったことを思い出し、翌日、リチャードに電話して持ってくるよう頼みました。
Saturday 19th
and Sunday 20th February
2月19日(土曜日)、20日(日曜日)
私は少しずつ体力が戻ってきましたが、それでもシャワーを浴びたり、化粧をしたりといった簡単なことをするだけで、くたびれ果ててしまっていました。日中は散歩に行ったり、そこら中の男性とおしゃべりをして、戻ってくると横になって、ジェネシスのお気に入りの曲、「The Lamb Lies Down On Broadway」を聞きながら、ぶどうを食べていました(至福のひと時!)。日曜には、私の下で働いている3人の歯科看護婦、ブレンダ、ジル、そしてリンがお見舞いに来てくれました。3人から、他の歯科医師たちが私の患者さんを診てくれていると知らされ、とてもうれしく思いました。ジルの隣に立つのは不思議な感じがしました。というのも、私は今や彼女とほとんど同じ背丈になっていたからです。リチャードはとても背が高いので、彼の隣に立っても、自分の身長が変わったとあまり感じませんでした。しかし、自分より少しだけ背が高かった人の隣に立つと、その違いがよくわかります。リンは私の両肩の高さが同じになったことに気づきました。私はジョギング用のボトムに、上は体にぴったりフィットしたベストを着て、そのベストのすそをボトムの中に入れていました。(私はもう何年もトップスのすそをボトムの中に入れたり、ベルトをしたりしていませんでした。退院後、まず最初に買うのはベルトになるでしょう。)その晩私は電子マッサージ器を背中にあて、前よりずいぶんとよく眠れるようになりました。
Monday 21st
February
2月21日(月曜日)
レイ先生が様子を見に来たとき、私は別の部屋にいた側わん症患者と座って話をしていました。先生は私がそこに座っているのが信じられないようでした。レイ先生がロッドの調整のために入院していた彼女のところにいる間に、私は自分の部屋に戻りました。やがて先生が私のところにやってきました。先生は、もし気分がいいなら、もう退院してもいいと言いました。先生は私の立ち姿をチェックし、両肩の高さが同じで、肩と腰が平行であることを確認しました。私は仕事にいつ戻れるかと尋ね、先生は私の仕事は背中にかなり負担がかかるので、少なくとも3ヶ月は休まなければならないと答えました。ところでこの数日前、レイ先生は私に、どうして整形外科医になりたいと思ったのかを話してくれました。私には整形外科医の仕事はまるで肉屋さんや、DIY作業のように思えたので、この話にはとても興味がありました。先生は、物心ついた頃から自分は整形外科医になりたいと思っていた、なぜなら1回の手術で即座にその人のQOL(=生活の質)を向上してあげられるからだと答えました。レイ先生は、私の手術の片側を自分が、もう片側をダグラス先生がやったのだと教えてくれました。私が、手術中、一番緊張する作業は何ですか?と尋ねると、先生は、ネジをいれるための穴を開けるときだと答えました。私は、私の人生を変えてくれたことを先生に感謝し、ショッピングに行くのが待ちきれないと言いました。私は4週間後の外来の予約を取りました。その晩、リチャードは遅くまで仕事をしていたので、私はリチャードが迎えにきてくれる午後8:30頃まで待っていなければなりませんでした。午後9:00頃、私は新しく友達になった人たちにお別れを告げ、再び自由になりました。しかも今回は全く別人に、24年ぶりにまっすぐな体になって!帰りの道中は、車の革のシートが温められていたおかげで、とくに問題もありませんでした。唯一痛かったのが、中華のテイクアウト料理を買った後、カーブのきついところで、リチャードが車を縁石にぶつけてしまったときでした。
Tuesday 22nd
February
2月22日(火曜日)
翌日、私は、自宅で本来の自分を取り戻していました。去年までの不安はすべて過去のものでした。私はすぐに、今までのボディラインを隠していた、さえない洋服をすべて処分してしまいました。そしてモーガンのストレッチ・ジーンズをはき、白いベストを着て、身ごろの小さなデニムのブラウスを着ました。(しかも、すそをボトムの中に入れて!)その後、クリスマス前に買った、ドイツのデザイナーが作ったというパンツスーツを着てみました。この洋服は、側わん症患者の洋服のルールに全く反するものでした。上着がぴったりしていて、後ろ身ごろにジッパーがあるのです。以前なら絶対に買わなかった服です。私は自分がこの洋服がこんなに似合うようになれるとは夢にも思いませんでした。つくづく手術前に着てみなくてよかったと思いました。午前中には少しドラムを叩いてみました。多分何ヶ月も演奏できないだろうと思っていたので、自分でも驚きでした。このときも背が伸びたのがわかりました。ドラムの椅子を穴一つ分、下げなければならなかったからです。キッチンでも身長が伸びたことを感じました。髪を乾かしたり、化粧をするときも、壁にかけた鏡が低すぎて、鼻から下しか見えませんでした!
Monday 28th
February
2月28日(月曜日)
その後の1週間は順調に回復していきましたが、それでも夜中に起きては痛み止めを飲んでいました。痛みは夜のほうが大変でした。私は自宅で過ごす時間を謳歌していました。私はワードローブにあった洋服を全部着てみました。どの洋服も、とりわけ肩のあたりが以前よりきれいにフィットするように思えました。一番変化を感じたのは、前の年の春に買った、丈の短いデニムのジャケットでした。手術前は全く似合わなかった一着でした。実際、手術の数ヶ月前、私は自分の背中のことでいわば「ヤケ」を起こして、それまで絶対に買わなかったような洋服を買っていたのです。私は、デニムのジャケットは「ロック・ファン」にとって最高のファッションだと思っていたし、自分のイメージとして「ロック好きなドラマー」というのを出したいと思っていたので、デニムのジャケットはよく着ていました。ベストのトップスも似あいました。ナイキの黒のベストを絶対に買おう!と思いました。ドラマーは皆、このベストを着ているからです。日曜日には教会に行きました。背中を支えるためのクッションを持っていかなければなりませんでしたが、教会に行けたことはすばらしいことでした。帰りにはドラムショップに立ち寄り、皆に挨拶をしました。ドラム・ショップの男子店員は、私が10歳若がえった、と言いました。
とはいっても、私はとても疲れやすく、手術からまだ2週間しかたっていないことを常に思い知らされていました。不思議なことに私は一種の躁(そう)状態にあり、この頃は夜を除いて、痛みはほとんど気になりませんでした。退院直後の1週間は、いろいろなことをしました。(恐らく、少々やりすぎたと思います。)知っている人ほとんど全員に手紙を書き、いろいろな人に電話をし、パソコンで遊びました。私は長年やりたいと思っていたことをやりました。それは毎年2泊している牧場に、4泊分の予約を入れることでした。その前の年は牧場に行かず、背骨がまっすぐになったら、いつもの倍の時間滞在したいと思ったのでした。ただ、私は背骨がここまでまっすぐになるとは夢にも思いませんでした!
側わん症についての本で読んだ中で、今や、私がとても共感できる文章がありました。
「脊髄のすぐ近くを外科医に施術されるという恐怖心を乗り越えた人なら、試験や締切り、会議や他人との対立など、全く怖くなくなるでしょう…。」(注)
もし手術前にあの長いネジを見ていたら、そしてそれが背骨に入れられることを知っていたら、きっと私は不安になっていたでしょう。小さなミスさえも、絶対に許されないように思えましたから!
(注)Nancy Schommer著 "Stopping Scoliosis" 1991, p124
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手術後のこと、そしてアドバイス
私がこれを書いているのは、手術からわずか9週間後で、まだまだ術後あまり時間がたっていません。手術直後の躁状態は過ぎ去り、少し気持ちが落ち込んできました。私はまだ車の運転ができず、囚われの身になったような気がして、かなりフラストレーションを感じています。夜はずいぶんと眠れるようになりましたが、それでもまだ朝起きたときには体がひどくこわばってなっています。熱いシャワーを浴びると、かなりよくなります。手術した部分は体があまり動かず、これからもずっとそうでしょう。それでもまだかなり体を動かすことができ、もう少しでつま先にも触れそうなくらいです。長時間パソコンに向かっていたり、刺繍をやっていると、肩甲骨と肩甲骨の間が痛みます。相変わらず腰はかなり痛いですが、痛み止めの薬を飲むより、ベッドで横になるほうが痛みが和らぐようです。また一日の真中あたりに、休むのは気分のいいことです。夜、うつぶせになって寝ていると、朝起きたとき腰椎部分が痛みます。あお向けや横向きに寝れば大丈夫なのですが、私はどうもうつぶせに寝るくせがあります。思うに、体のあちこちの部分が治ろうとしている今現在の段階では、この姿勢は背骨全体に負担がかかっているのかもしれません。この文章を書いている時点では、私は傷病休暇が終わる4週間後になっても仕事には復帰できないだろうと感じています。完全に回復するには、もう丸1ヶ月は必要ではないか、そして職場復帰しても、軽い作業だけではないかという気がしています。困ったことは、私が一見とても元気そうに見えることです。恐らく職場の同僚が私を見たら、前よりずっと元気そうなのに、なぜまだ仕事に復帰できないのかといぶかしく思うのではないかと思います。たとえば枕から枕カバーをはずすといったような、些細な動きをするときにも、肩の筋肉が引っ張られているのを感じます。こんな些細な動きでそんななら、歯を抜くとき作業をするは一体どうなってしまうのでしょう!不思議なことですが、何がまだ無理なのか、体が教えてくれます。お紅茶をいれるために、やかんを持ち上げただけで痛いのです。最初の頃は足が痛みました。というのも今や、下にあるものを拾うために、体を曲げるということができなくなってしまったので、そのたびにひざを曲げて拾わなければならないからです。でもそのうち足が強くなってくるでしょう。これから手術を受けようと思っている人へ、役に立つかもしれないアドバイスをいくつかまとめてみました。
病院には必要最低限のものだけを持っていき、あまりあれこれ持ちこまないように。
私はお楽しみグッズ専用のバッグを1つ持っていきました。中には、刺繍、ウォークマン、何冊もの本、ドラムのスティック、楽譜、そしてたくさんのカセットテープなどが入っていました。でも結局、音楽を聴く以外、何もやろうという気になれませんでした。バスタオルとシャワー・ジェルは忘れないように。看護婦さんに洗ってもらうときに歓迎されます。私はどこでも泡が出る、シャワー・クリームしか持っていきませんでした。私は手術後、集中治療室に入り、その後個室に移らなければならなかったのですが、がらくたが多すぎると病室を変わるときに大変です。
PCAは、あまり早くにもっていかれないようにしましょう。
私のは手術から48時間後にもって行かれてしまいました。これは早過ぎました。私は痛みをこらえながら、次の鎮痛剤(analgesics)の投与まで、長い時間待たなければなりませんでした。PCAはなるべく長く手元にあったほうが良いです。
病院のスタッフには親切にしましょう。そうすればスタッフはあなたに親切にしてくれます。
病院のスタッフにはよくしましょう。彼らはあなたの召使いではないので、あまりたくさんのことを求めないように。私が入院していたとき、四六時中哀れな声を出して、何をしてくれ、かにをしてくれと要求している患者がいました。彼は私に、ここのスタッフは本当に役に立たないとさえ言っていました。しかし実際には、スタッフはとてもよく働き、仕事に一生懸命でした。ある看護婦さんは、ある日、シフトを終えて帰宅した後、疲労困ぱいのあまり泣いてしまったことがあると話してくれました。
あまりすぐに食べないように。
病院のスタッフは、あなたになるべく早く食べてほしいと思います。本当に食べたいときになれば、自分でわかるものです。私は水曜の夜にスープを飲むという大きな過ちを犯してしまい、飲んでからまもなく、気分が悪くなってしまいました。ただし水分はたくさん取るようにしましょう。私は手術から72時間後に、食べても大丈夫になりました。
背中を支えるクッションにはお金をかけましょう。
この一連のアドバイスの中でも最大のアドバイスは、ソーセージ形をした背中を支えるクッションを買いましょう、というものです。私はこれなしでは生きていらず、どこに行くにも持っていきました。とても助かりました。
できれば、低周波治療器(TENS)を手に入れましょう。
私の場合、この器械のおかげで、術後まもない頃の夜を乗り越えることができました。2週間ほど使いました。2つのパッドを背骨の両側、傷跡より下の位置に置き、作動させたまま寝ました。30分で切れるようタイマーをセットしていたので、目がさめるとまたスイッチを入れました。
早くに、たくさんのことをやろうとしすぎないように。
退院するときは、多分体調も気分もよいでしょう。私のように、帰宅したその日に、たんすの中にある洋服をすべて着てみるということは、くれぐれもしないようにしましょう。手助けを申し出てくれる人がいたら、最大限甘えてしまいましょう。洗濯機に洗濯物を入れたり、食器洗い機から食器を取り出すような動作はつらいし、とても痛いですから。
1日の真ん中には、ベッドで横になりましょう。
鎮痛剤を飲むよりもずっといいことは、1時間以上、横になることです。重さを支えることからの休養が必要です。しばらく横になれば、午後はずっと気分よくすごせます。
手術後の躁(そう)状態は、長続きしない。
躁状態が過ぎ去った後には、少しうつ気味になるのを覚悟してください。赤ちゃんを産んだ後の気分に少し似ています。私はこれはよくあることなので気をつけるように、と注意されていたので、覚悟していました。退屈しないよう、忙しくしていたほうがいいですが、休養はたくさんとりましょう。手術から2ヶ月後でも、数時間起きているだけで背中が痛くなります。
新しい体を楽しみましょう。
手術前には買おうなどとは夢にも思わなかったものを買いに行きましょう。すばらしい気分です。どうぞ楽しんでください!!
14 Weeks Post
Surgery. May 23rd 2000
2000年5月23日、手術から14週間
今、私は残り数週間になった自由を満喫しています。仕事には、手術から4ヶ月後の6月12日に復帰する予定です。執刀医には、仕事に復帰するまで少なくとも3ヶ月の休養が必要だと言われました。本音を言えば、もし私の仕事がデスクワークであったとしても、私は3ヶ月での職場復帰は早すぎると感じただろうと思います。4週間余分に休めたことは、大きな違いでした。
体が固いという感覚にも慣れてきて、筋肉もくっつきはじめてきたのを感じています。まだ背中は痛みますが、肩甲骨の下の鋭い痛みはなくなってきました。今週はとても調子がよいのですが、先週は痛くて大変でした。回復は徐々にくるのではなく、アップダウンがあります。それでも自分の姿を鏡に映し、以前の姿を思い出すと、今でも驚いてしまいます。手術から4ヶ月が経とうとしていますが、自分の姿が信じられません。左右対象というのはすばらしいことです。そして私は手術をしたこと、そしてその体験を他の人に話し、また他の人にも同じことをするよう勧められることを、とても幸運だと感じています。
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