カナダ人女性の側わん症手術体験記
「側弯症:私の物語」
Scoliosis: My Story
Diagnosis and First Surgery
. 子供の頃、私の生活は平凡なものでした。 幼い頃からフィギュア・スケートを習いはじめ、その後女子のソフトボール・チームに入りました。 本当はあまりスポーツは好きではなかったのですが、それでも学校ではサッカーやドッジボールをして遊んでいました。 夏にはキャンプに行き、そこで水泳のクラスに入りました。(でも水が怖くて、結局泳げるようにはなりませんでした。おおっと、脱線!) 夏には海に行って友達と遊んだり、自転車に乗ったりと、普通の子供がやることをやっていました。 冬、私が大好きだったのは、急な丘をそりで滑り降りること、それにスケートでした。 しかし1985年に、すべてが変わってしまいました。 そのとき私は12歳で、これから自分の前には豊かな人生が控えているものと思っていました。 まさかその年、もう二度とスケートができなくなることや、その年の夏に海に行ったのが、海に行く最後になるだろうとは思いもしませんでした。 猛スピードで丘を滑り降りることや、ジェットコースター、スキー、乗馬を楽しむチャンスが自分から奪われてしまうとは思いませんでした。 だれも私にそんなこと、教えてくれませんでした。だれか教えてくれていればよかったのに…と思います。
ことの起こりはこうでした。 ある晩、私はキッチンのテーブルで宿題をやっていました。 そのとき母が、私の背中がおかしいことに気づいたのです。 母は私の姿勢が悪いのだろうと思い、私にまっすぐするように、と言いました。 でも私は姿勢が悪かったわけではありませんでした。 母は近くにきて、私の背中になにか、盛り上がったものがあることに気づきました。 母はかかりつけのお医者さんに予約をとりました。 お医者さんは私の体を簡単に診察した後、私は「側弯症」という病気であり、専門医に診てもらうように、と言いました。 このとき、両親も側弯症がいったいどういうものなのか、全く知らなかったのだろうと思います。少なくとも私は知りませんでした。 その頃はまだ、私の背中はそれほど曲がっているようには見えなかったので、不安などはありませんでした。
診察してくださった専門医は、ダグラス・ブラウン先生でした。 先生はハリファックスのIWK小児病院に勤務していて、月1回、ヤーマスにある病院でも診察していました。 こうして、ブラウン医師のところを訪れる日々が始まりました。 初めてブラウン先生に会い、初めてレントゲン写真をとったとき、先生は私は手術を受けなければいけない、と言いました。 その理由について、装具をつけるには遅すぎるからだ、と先生は説明しました。 たしか、角度は52度だったと思います。 私はブラウン先生が好きではありませんでした。 先生は冷たくて、脅すような態度で、180センチ以上あろうかと思うくらい背が高く、絶対に笑いませんでした。 これから立ち向かおうという手術について、そのとき自分がどう思っていたのか、今となっては覚えていません。 多分怖かったと思いますが、それでも、この病気がどんなものであれ、それを止めるための一時的な障害物だろう、くらいにしか考えていなかったと思います。 側弯症がどういうものなのか、初めて私が認識したのは、多分母の大きな医学辞典で「側弯症」をひいてみたときだと思います。 そこには側弯症の人たちの写真が載っていました。 その人たちの体はひどくゆがみ、曲がっていました! まるで、見世物小屋で見世物になっている人のようでした。 私は、「自分は手術を受けるのだから、絶対にこの人たちのようにはならない」と自分に言いきかせました。 そのときの私は、将来自分も写真の人たちのようになるだろうなどとは、夢にも思いませんでした。
1985年6月に手術をしました。 私は心の準備が全くできていませんでした。 私は5歳のとき、弱視を治すために小さな手術をし、また7歳のとき、甲状舌管のう胞(thyroglossal cyst)を取り除くために小さな手術をしたことがあったので、病院というところにはなじみがあり、「眠らされること」にも慣れていました。 冷く、お高い感じのブラウン先生は、私の不安を和らげるようなことを何もしてくれませんでしたし、私がこれから直面することについて説明してくれもしませんでした。 私はすごい恐怖を感じ、手術前の血液検査がトラウマになってしまいました。 その後の14日間は、地獄でした。 注射針と血液検査の日々。 毎日、新しい恐怖がありました。 太もも、お尻、腕にささった針。 うんざりする、指先からの毎日の血液採取。 最悪の悪夢が現実になったのでした。 そして麻酔が切れるにつれて、増す痛み。 さらに、もう一度歩くことを練習しなければならないというショック。 目がさめたとき、機械につながれていた恐怖。 何日間も点滴や輸血をしなければならない恐怖。 そしてもちろん、毎日看護婦さんがやってきて背中の包帯を変えるときの痛み。 あの包帯を変えるときの痛みは、私の人生で最大の痛みでした。 あまりに痛かったので、私は大きな声をあげました。 まるで皮膚をはがされているようでした! 恐怖はほかにもありました。 別の病室から聞こえてくる、ほかの患者さんのうめき声。 そして夜、皆が帰ってしまった後の、さびしさ、心細さ。 ナースコールを押しても、だれも来てくれない。 痛み止めをもってきてもらうために、私はナースコールを永遠に押し続けました。
手術直後の数日間は、本当にたいへんでした。 そのときの気持ちを、体験したことがない人に説明するのは不可能でしょう。 体が全く動かせない状態を想像してください。 痛くて、体全体が棒のように固く、まるでミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされている状態を想像してください。 それから、看護婦さんがやってきて、初めて座る日がやってきました。 ものすごく怖かったです。 体全体が石のように重く感じました! 私はあまりに怖かったので、座るだけの気力がありませんでした。 そして両脇から抱えられて持ち上げられると、目がまわり、気持ち悪くなりました。 でも、それと同時に痛くて、体が重たく感じられました。 セラピーと、ゆっくり歩く練習を1週間やって、やっと再び歩けるようになりました。 いえ、1週間以上かかったかもしれません。 その間中ずっと、頭は重い石のようで、あちらこちらが痛むのです。 後ろを見たり、上を見たりするために首をまわすこともできませんでした。 また、腕もほとんど動かせませんでした。 本当に恐ろしい体験でした。 入院生活でもう1つつらかったことは、 毎日のシーツ交換でした。 2人以上の看護婦さんが来て、とても大変そうでした。 私は押されたり、引っ張られたり。 痛みでうめいているときに、体の下にあるシーツを取り替えてもらうのは、楽しいことではありません。 またカテーテルをつけていると、自分ではどうしようもできない絶望感におそわれます。 自分で歯も磨けない。 そして用を足すにも、知らない人に助けてもらって、ボウルやおまるでしなければならない。
もう1つ、入院生活のいやな思い出は、ギブスをつけたときのことでした。 私は滅菌室につれていかれ、金属製の機械の上にのせられました。 この機械はベッドでしたが、私にとっては冷たい、金属の棒でしかありませんでした。 痛みがひどく、私は人の助けを借りなければ、まだほとんど体を動かすことができませんでした。 お医者さんと看護婦さんたちが私を担架から持ち上げて、その金属棒の上に乗せませした。それからブラウン先生が私のお腹全体に、とても熱い液体をのせはじめました。 先生は型が取れるよう、私の体をぱたぱた叩いたりしました。やがて石膏が固まってくると、私は息ができないと思うほど苦しくなりました。 石膏が固まり、私はパニックになりました。 私は泣き出し、叫び声をあげました。 先生のぶっきらぼうな態度は、全然助けになりませんでした。私はきつい、息ができない、と訴えつづけましたが、先生は私の言葉に全く耳を貸しませんでした。 私が落ち着きを取り戻し、このギブスにくるまれているのに慣れるのには、長い時間がかかりました。 ギブスをつけるときも、つらかったでしたが、さらにつらかったのは、これを夏の間中、つけていなければいけないことでした。そ してギブスを取るのも、12歳の少女にとってはトラウマ的な体験でした。
さて、ここで話を先に飛ばして、手術後に起きたことを話しましょう。 たしか14日間入院していたと思います。 先にも言ったように、私は夏の間中、ギブスをしていなければなりませんした。 かゆかったし、不快でした。 大きなギブスの上からでは、どんな洋服を着ても不恰好でした。 ギブスをはずしてもらうために病院に行ったのも、かなり怖い体験でした。 私は再びあの、金属製のベッドに乗せられ、文字通りのこぎりでギブスは切り落とされました。 小さな丸いのこぎりが出す音は、私をヒステリックにさせるのに十分でした。 もちろん、ギブスを開けるためのナイフも恐怖でした。 私の人生の1章をしめくくる、つらいできごとの1つ? とんでもない。 これはほんの始まりでした。
1回目の手術
年齢:12歳
手術日:1985年6月
手術方法:ハリントン・ロッド
角度:52度(だったと思う)
病院:ノヴァ・スコティア州、ハリファックス市、IWK小児病院
執刀医:ダグラス・ブラウン医師(1998年に退職)
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Hell Revisited: Second Surgery
1回目の手術の後、私は例の石膏のギブスを長い間、つけていなければなりませんでした。 どのくらいの間、つけていたのか、正確には忘れてしまいました。 でも、とても大変でした。 ちょうど夏だったからです。暑い季節にあんなものをつけてるのが、どんなに不快なものか想像できると思います。 私は6年生を終えたばかりで、背中のことがなければ、その前の年と同じように女子のソフトボール・チームに参加していたはずでした。 1985年9月に7年生(訳者注:日本の中学1年生)になりました。 そのときのことはあまり覚えていません。 ただ覚えているのは、まだギブスをつけていたし、どんなにだぶだぶの洋服を着ても、ギブスが見えてしまうので、学校に行くのがとても恥ずかしかったということです。 笑い者になるのではないかと不安でしたが、幸い、そういうことはありませんでした。 この頃、私の背中は曲がってみえなかったので、私が言わなければ、だれも私の背中が曲がっていることには気づきませんでした。 いずれにせよ、新学期が始まったとき、担任の先生がクラスメートに私の手術のこととギブスのことを説明し、私にぶつからないようにと注意しました。 たしか、私は学校にレントゲン写真まで持っていったと思います。 皆、驚いていました。 先生はさらに、私はしばらく体育の授業を見学することいなると言いました。 休み時間になると、クラスのいじめっ子が私のところにやってきて、やさしい言葉をかけてくれ、さらに私が大丈夫か見ていてあげる、と言ってくれました。 これは、すごいことでした。 どちらかというと乱暴者で、あまり友達のいなかった彼が、彼なりの方法で、私に友情を示してくれたのです。 結局、私のことをからかう子はいませんでした。 クラスの皆がなんとなく私を守ってくれるような雰囲気で、私の状況に、心の底から関心を示してくれました。 さらにうれしいことに、親友ができました。 2人の親友‐‐フォービーとタワーニャ、そしていとこのマイケルは、私の大きな支えになってくれました。
やがて私は完全に回復し、また普通に動けるようになってきました。 背中には大きな傷跡が1つありましたが、私の背骨はこのときはまだそれほど曲がっていませんでした。 おばと、いとこのマイケルと一緒に、フロリダにあるディズニー・ワールドにも行きました。 傷跡が隠れる洋服を着ようと悩んだことを覚えています。 ディズニー・ワールドは楽しかったのですが、私はジェットコースターなど、ほとんどの乗り物に乗ることができませんでした。 手術後の夏、海にも行きました。 以来、海には行っていません。 思いっきり楽しんだのは、このときが最後でした。 私は砂でお城を作り、砂浜を走りまわり、波間で遊びました。(*ため息*) このとき以後、水着を着て海に行った回数は、片手で数えられるほどしかありません。 そしてそのほとんどを鮮明に覚えています。 なぜなら、私にとってつらいことだったから。 私の夢は公営のプールに頻繁に行くことです。 1986年あたりには、まだやれていたことでしたが。
9年生(訳者注:日本の中学3年生)になってから、状況は悪くなりました。 背中が曲がりはじめていました。 ハリントン・ロッドが短すぎて、背骨の下のほうが急速に曲がってきたのです。 このころ、他にもつらいことがありました。親友のトワーニャが別の州に引っ越してしまい、もう1人の親友フォービーは個人的な事情があって、高校を中退してしまったのです。 「もう一度手術をしなければいけない」、とブラウン先生は私たちに説明しました。 私は、ただもう、信じられませんでした! 私は、死んでしまいたい、廊下を走っていって、窓から飛び降りたい、とさえ思いました。 あの苦痛を再び味わわなければいけないということが、どうしても受け入れられず、信じられませんでした。 世の中、不公平すぎる。 しかし、この時点で、私はこの病気の深刻さを感じはじめていました。 私は背骨が曲がっているのだ。 私は、自分は歪んだ、醜い人間だと思いはじめていました。 私の中の何かが、死に始めていました。 多分、そう考えたほうが、事態を受け入れやすかったのだろうと思います。 私はこれが自分の運命なのだと、あきらめるようになりました。 そして、この2回目の手術が最後の手術になるだろう、2回目の手術は私を「治し」、私の背骨を再び、そして未来永劫まっすぐにしてくれるだろう、と思いました。 正直に言えば、このとき私はある意味でブラウン先生を責めました。 先生が最初の手術でミスをしたのに違いない、これは全部先生のせいだ、と。 実際先生は、「別の方法でやっていれば、こうした事態は防げただろう」ということまで認めました。 ただ本当は、先生は最善をつくてくれたし、うまくいくことを望んでいたのですが。
手術は1987年12月でした。 1月はじめに退院し、1月12日に14回目の誕生日をむかえました。 2回目の手術はつらいものでした。 1回目の手術のときのように、いとこが支えてくれなかったからです。 彼は大人になり始めていて、女の子に興味をもちはじめ、私と過ごすことも少なくなっていました。 私の記憶によれば、2回目の手術は、1回目のとほとんど同じでした。 同じ病院の同じフロア、同じ手順、同じ痛み、同じ恐怖。 入院中、サイケな夢を見た記憶があります。 そのころ、自宅の外のケージでリスを飼っていたのですが、ある晩、そのリスが死ぬ夢を見たのです。 私はリスが雪の中、冷たくなりながら、私のところにやってきて、さようならと言う夢をみました。 翌日、母が、リスが死んだことを教えてくれました。 2回目の手術のことは、あまりよく覚えていません。 1回目の手術とあまりに似ていて、重なり合っているのです。 小児病棟で働いている、ポーリーン・ベルーシという女性スタッフがいました。 彼女は私の母と親しくなり、よく私のところに来てくれました。 うれしかったです。 そのころ、変わった出来事が2つほどありました。 母が神父さんを呼んで、私のために聖餐をやってくれたことと、ソーシャル・ワーカーとされる人が来たことでした。 当時、私はだれも信用していなかったので、ソーシャル・ワーカーの女性に心を開きませんでした。 私は、だれも私の痛みなどわかってくれないと、思っていました。 楽しかったことは、壁に飾る、バレンタイン・デー用のデコレーションを作ったことでした。 もう1つの楽しみは、テレビでドラマ「ジェネラル・ホスピタル」を見ることでした。 でも同室の女の子が、いつも別の番組を見たがったので、なかなか見られませんでした。 彼女は私と同年齢で、同じような手術をしたのですが、ひどく生意気な子でした。 彼女の母親は病院に来るとラジオをつけ、私は気が狂いそうでした。 1回目の手術のときもそうでしたが、2人の患者を同じ部屋にするのは、よくないです。 私は人嫌い(まぁ、非社交的なんです)なので、見知らぬ人と同じ空間を共有するのは、楽しいことではありませんでした。 もう1つつらかったことは、1回目の手術のときもそうだったのですが、飼い犬にとても会いたくなったことでした。 犬は小型のプードルで、タフィーという名前でした。 タフィーは、私の人生の喜びでした。 両親は私をキャンピングカー(か、救急車)に乗せて家に帰ると、タフィーを連れてきてくれました。 タフィーにまた会えて、とてもうれしかった。 でも私はまだ体力がなく、タフィーを抱き上げることもできませんでした。
いずれにせよ、これで傷跡は2つになりました。 今回のギブスは、取り外しができるものでした(ほっとしました!)。 しばらくの間、私は自宅で学校の勉強をしていました。 学校に戻ったときには、まだギブスをしていたので、ギブスをつけていくのがとてもいやでした。 もう高校生なのです。 クラスメートは小学校のときのようには、親切ではありません。 それでも、私をからかう子はいませんでした。 幸運でした。 当時の私は模範的な生徒で、成績はほとんどオールA。 シャイで、控えめで、親友と呼べる友達はほとんどいないような子でした。 一体、事態がどこからどうやって悪くなっていたのか、あまり覚えていません。 手術は、カーブの進行を止めてはくれましたが、体型は直してくれませんでした。 実際、年を取るにつれ、私の体はますます歪んでいきました。 手術のおかげで少し背が高くなったことも、あまり慰めになりませんでした。 10年生(注:日本の高校1年生)になった頃、私はひどく自意識過剰で、抑うつ的になっていました。 成績が落ち始めました。 11年生になったころには、自殺願望を持ち、学科の単位を落としました。 そして12年生になると、抑うつ状態がひどくなり、ついに留年してしまい、クラスメートと一緒に卒業できませんでした。 最悪の時期でした。 タフィーが死に、私は悲しみにうちひしがれました。 私は精神科にかかり、プロザックなどの薬を飲むようになりました。 私は、自分は醜いと感じ、自分の体を恥じ、内側からレイプされたように感じました。
2回目の手術
年齢:14歳
手術日:1987年12月
手術方法:ハリントン・ロッド
病院:ノヴァ・スコティア州、ハリファックス市、IWK小児病院
執刀医:ダグラス・ブラウン医師(1998年に退職)
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ジョン・コストゥニク先生と、ジョンズ・ホプキンズ病院のスタッフ全員のおかげで、
私の人生は変わる、しかも良い方向に!
3度目の手術
Thanks to Dr. John
Kostuik and all the staff at Johns Hopkins Hospital
for changing my life, for the
better!
Third Surgery
1996年の夏、私は再びブラウン先生のもとを訪れました。 すでに毎年の定期検診が必要なくなってから、何年もたっていました。 はっきりとは覚えていませんが、たしか18歳のとき、先生から、もう年1回の定期検診に来なくてもいいといわれたと思います。 1996年の夏、私は23歳でした。 その数ヶ月前から背中の痛みがどんどんひどくなってきていました。 その少し前、私は自分の背中が曲がってきていて、洋服が合わなくなってきていることに気づきました。 私は、背骨のわん曲が進行しているのではないかと不安になり、これはただのパラノイア的な想像に過ぎないと自分に言い聞かせていました。 しかし夏になった頃には、私の姿勢が大きく変わってきていることは友達や家族の目にも明らかで、専門家にみてもらわなければいけない状態になっていました。
あのときの診察を、私は一生忘れないでしょう。 私は車でハリファックス市に向かいました。 ルームメイトのジャッキーについていってもらいました。 私は、いつもナビゲーションをしてくれた彼なしで、都会で運転することに慣れていなかったからです。 彼はカナダを発って、昔の彼女と一緒にカリ・クソ・フォルニア(別に怒っているわけじゃないんだけどね。へへ)に行ってしまったのでした。 彼の行動に、私はひどく傷つきました 。彼との別れが精神的なトラブルとなり、私の状況はさらにひどくなっていました。 でも、ここでその話をするつもりはありません。 さて、ジャッキーと私はそれほど親しいわけではありませんでしたし、彼女は私の背骨についてほとんど知りませんでした。 このとき私を支えてくれるネットワークというものを、私はそれほど持ち合わせていませんでした。 再びあの先生のもとを訪れなければいけないということは、すでに十分つらいことでした。私は先生がそれほど好きでもなかったし、自分の背骨について、正直先生を責めたこともあったからです。 心のどこかに、「先生が最初の手術のときにもっと長いロッドを入れてくれていれば、2回目の手術も必要なかっただろうし、背骨もそれほど曲がらなかっただろうに」という気持ちがいつもありました。 さらにブラウン先生は冷たいことで悪評高かったし、入院患者にも鬼のように接していましたから。 脱線しました。
私は先生に会ったとたん、先生が変わったことに気づきました。 前より笑うようになっていて、私が覚えてているよりもずっと親しみやすい感じになっていました。 でも、そのときのことを、私は決して忘れないでしょう。 レントゲン写真が取り出され、診察が始まりました。 先生は私に、落ち着いてしっかり聞くように、と言いました。 記憶があいまいなのですが、それでも私にその「知らせ」を伝えたとき、先生の目には涙がたまっていたのは確かです。 先生は、私が絶対に聞きたくなかったことを言いました。 ロッドが折れていたのです。
言うまでもなく、私は大変なショックを受けました。 すっかり、うちひしがれてしまいました。 当然のことながら私は泣き出し、先生も少し声につまっていたようでした。 先生は、今まで私のことを思い出すたびに、1回目の手術の結果を後悔し、もっとロッドを長くしておけばよかったと思い、私にあのような経験をさせてしまったことを心苦しく思ったと言いました。 先生はさらに、外科医のキャリアの中で、あのときああすればよかった…と、とくに強く印象に残っている手術が1つあるものだが、自分の場合はそれが私の手術だったというようなことも言いました。 かつて冷たくて、人を寄せ付けない雰囲気があった人の口から、こうした言葉を聞くのは衝撃的でした。 私は先生を感情を持った生身の人間と感じるようになりました。 いずれにせよ、先生は、何らかの理由で私の背中の中のロッドが折れてしまった、いつどのような理由で折れたのかはわからない、と言いました。 先生は、私は手術を受けなければならない、選択の余地はない、しかしリスクの大きい手術で自分にはできない、またカナダでその手術ができる医師も思いつかない、と言いました。*ため息*。 こうした言葉はどれも、そのときの私にとってあまり励みになるものではありませんでした。 先生は、手術ができる医師を探してみると言ってくれました。
しばらくして先生から、手術ができる医師を見つけたと連絡がありました。 それはブラウン先生が何年も前にオンタリオで一緒に仕事をしていたコストゥイク先生でした。 今はアメリカのボルティモアのジョンズ・ホプキンズ病院にいるとのことでした。 その病院の名前は聞いたことがありました。 世界でも有数の病院だということも知っていました。 1996年10月、私は診察を受けるためにアメリカに飛びました。 母と元彼がついていってくれました。 どうして元彼が? それは、こうでした。 前に書いたように、彼はロサンゼルスに行ってしまったので、私たちの関係は冷めていました。 彼からは連絡もなかったし、私も彼から再び連絡があるとは思ってもいませんでした。 しかし10月になって、彼の母親から電話があり、息子のことが心配だと聞きました。 彼は大変なホームシックにかかっているというのです。 そして電話で、彼が私に会いたい、カナダに帰ってきたい、と言っていたというのです。 再会の経緯は、忘れてしまいました。 多分、彼の母親に、彼に、私に電話してもいいと伝えて、と言ったのだと思います。 私から彼に連絡する方法はなかったので。 それで彼が私に電話をくれたのだと思います。 私たちは長いこと話しました。 彼は、私に会いたいと言いました。 私は彼に背骨のことを話し、今月の終わりにアメリカで診察を受けることを話しました。 実は、私たちが付き合っていた頃、彼は、もし私がまた背骨の手術をすることになったら、いつ、どこで手術をすることになろうとも必ずついていてくれると言っていたのです。 彼は、どこかに私の背骨をまっすぐにできる、何らかの方法があるはずだと思っていましたが、私は彼ほど楽観的ではありませんでした。 いずれにせよ、彼は約束をしてくれ、その約束を大切だと思ったのでしょう、コストゥイク先生との診察についていってくれるために、カリフォルニアから戻ってきてくれました。 ただ、もうちょっとで間に合わないところでしたけど! 彼がロサンゼルスを発った日から、ボルティモアでの私の診察の日まで、ほとんど間がなかったからです。
診察は、さい先のいい日でした。 10月31日。 私はこれを良い兆候だと思いました。 メリーランドまでのフライトに、彼がついていってくれたのは助かりました。 私は飛行機恐怖症だからです(飛ぶことより、墜落することのほうが怖いのです)。 飛行機に乗っていた間、彼とずっと手を握りあいながら、私は、彼は私のところに戻ってきた、この先もずっと私の元にいてくれるのだと確信しました。 皮肉なことに、側わん症という、私の人生を壊したものの1つが、私たちを再び結び合わせたのです。 このとき私の、自分の背中に対する見方は変わりはじめました。 側わん症は私の人生を壊したわけではないかもしれない…と。 読み進んでくだされば、それがいかに本当だったかが、わかっていただけると思います。 なぜなら1996年以来、私の人生は常にいい方向へと向かいはじめ、私の夢は「願いをかける」と言葉を言い終わるよりも早く、現実のものになっていったからです。 そして、もし私の側わん症に名前と顔があったら、私は「ありがとう」と言うでしょう。
3回目の手術
年齢:24歳
手術日:1997年2月11日
手術方法:マイアミ・モス・システム、AO
Screws、 Kostuik Sacral Bar
病院:アメリカ、メリーランド州ボルティモア市、ジョンズ・ホプキンズ病院
執刀医:コストゥイク医師
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Third Surgery
手術待ちの患者さんは常に大勢いるもので、私も1997年2月まで待たなければなりませんでした。 診察からの数ヶ月間は、私が運動をし、きちんと食事をするための期間となりました。 私はひどくやせ細り、神経性無食欲症(anorexic)になりかかっていました。
母が運動用に中古のエアロバイクとトレッドミルを買ってくれ、元彼(今や私と同居)が、私がもっと健康的な食事をするよう助けてくれました。 診察のとき、コストゥイク先生はもっと正しい食事をとり、体調を整えることの大切さを強調していました。 私の記憶が正しければ、先生は、それは私の命にかかわることだとまで言いました。
手術のときの輸血用血液については、自分のを貯血しておくか、人のをもらうか、自分で選ぶことができました。 私は血液検査が死ぬほど怖かったので、自分のを貯血しておくのは断りました。 ありがたい! いくつかの日付けの中から手術日を選ぶことができたのも、心強く感じました。 手術のような、人生での大きな出来事について、自分が決定権を持っているという感覚がもてるほうが私は好きです。 不思議なことでした。 というのも、1985年と1987年の2回の手術では、私には何の決定権もなく、また自分の意見を言うこともできませんでした。 恐らくまだ若かったからだと思いますが、両親と医師が私のことをすべて決めました。 大体、16歳以下だと、医療の世界では、あなたは存在していないかのように扱われます。 大抵の場合、医師は患者であるあなたに向かって話すことすらせず、あなたのことについてあなたの両親に向かって話しますし、あなたの人生にかかわる決定が、あなたの同意や理解を得ずに、なされるのです。 そしてあなたの希望などおかまいなしに、神父さんやセラピストをあなたのもとにつれてくるのです。 しかしこの3回目の手術は違っていました。 それは私の手術でした。 今回は、セラピストも、神父さんも、尼さんも、奇妙な帽子をかぶったシュライン会の人たちもいませんでした! お医者さんは私の顔を見て話をしますし、決定権をもつのは私なのです。 私はもう大人だからです。
脱線しました。*ため息*。 話を2月に進めます。 元彼と両親とともに、飛行機でボルティモアに向かいました。
私は飛行機が大嫌いなので、フライトは恐怖でした。 たしかホテルに1泊だけして、翌日は病院に行ったと思います。 今回は、今までとは全く違う、全く新しい経験でした。 今回の病院に比べれば、以前入院した病院は、とても小さいものでした! ジョンズ・ホプキンズ病院は、病院が1つの都市のようでした。 そういった病院で手術をするのは、ちょっとした体験でした。 外国から来たということで、恐らく私が早く慣れるためだったのでしょう、コーディネーター(カウンセラー?)がついてくれました。 彼女はとてもいい人で、初日には、私が行くところすべてに一緒についていってくれました。 手術後も、毎日私の様子を見に来てくれ、退院日にも来てくれました。 ああいった広くて、不安な場所にいるとき、心のよりどころにできる人がいるのは、とても大きな意味のあることでした。 おもしろくて、面倒見がよくて、ポーランドっぽいなまりのある彼女は、大きな助けになりました。
病院での初日は、次々と行われる検査や書類書きで目が回るほどでした。 コーディネーターの女性がついていてくれたとはいえ、あまりのストレスに、私は貧血を起こしてしまいました。 多分急に現実感が出てきたからだと思います。 「本当に起こるのだ」と認識し、恐怖心にとらわれてしまったのだと思います。 レントゲン写真、脳電図、心電図、血液検査など、ありとあらゆる検査をやりました! あまりの検査の多さに、私は呆然としてしまいました。 しかもそれらはすべて、私に署名させ、翌日の手術に備えさせるだけのためなのです! 部屋をあてがわれ、検査や手続きの合間には、しばらくその部屋で休むことができました。 部屋は悪くはありませんでした。 テレビがあり、そこでドラマ「ジェネラル・ホスピタル」を見ました。 このドラマは、私にとっていつも心のよりどころであり、私の「精神安定剤」でした。 その晩、最初の本当に悪いことが起こりました。 ミスがあった、といわれたのです。 その日、私は好きなだけ食べてもいいと言われ、その通りにしました。 しかし医師の指示は、ある特定の時間――正確な時間は忘れましたが――以降は何も食べてはいけない、というものだったのです。 私は食べたものを出すために、まずい薬を飲まなければなりませんでした。 そうしないと翌日手術ができないというのです。 その薬のまずかったこと! そしてもちろん、なぜだか理由は知りませんが、手術の前日に用意しておかなければならない点滴とか、そういった、あまり覚えていたくないものがいろいろ準備されました。 その夜は、楽しい夜ではありませんでした。 やがて、ホテルに戻る両親との涙の別れのときがやってきました。 私はどんなにか一緒にホテルに行きたいと思ったことでしょう。 ただ幸いなことに、病院側は私の元彼(以後、「C」と呼びます)が、同じ部屋の別のベッドに寝ることを許してくれました。 これは、とても心強いことでした。 翌朝、時間がきて、私が手術室に運ばれていくときにも、彼がそばにいてくれることになったからです。 正直なところ、もし彼が病室に一緒にいてくれなかったら、私は1人ではすべてのことに耐えられなかったのではないかと思います。
その晩はあまり眠れませんでしたが、朝のひどく早い時間に、看護婦さんが私を起こしにやってきました。 手術の時間です。 ベッドから起きて、信じられないくらい早い時間にシャワーを浴びて、さぁ、気をしっかりもって! もう、後戻りはできない! 私は車つきのベッドに乗せられ、廊下を手術室へと向かい、Cにさよならと言ったのをぼんやりと覚えています。 彼は私のすぐそばにいて、できるかぎりの支えになろうとしてくれていました。 彼は手術室に入ることを許可されたので、手術室までついてきてくれました。でも、そこまででした。 私は、手術室のことは何も覚えていません。 病院のスタッフは頭がよくて、私が手術室に運ばれている間に眠くなるよう、点滴しておいてくれたのです。 ありがたいことでした! 今でも、Cがリクエストしてくれたのではないかと思っています。 彼は、過去2回の手術で私が一番いやだったことが、1人で手術室に行くことと、私を眠らせる準備をする間、体のあちこちに針を刺されることだったと知っていたからです。 できることなら、これから手術を受ける人たちも同じことをお勧めします。 手術中の記憶もありません。「 臨死体験」も、「手術中の覚醒」もありませんでした! その点については、お話できるようなおもしろいことは何もありませんでした。
手術は8時間かかりました。 その晩、私は目覚めなかったと思います。 24時間以上たってから、集中治療室で目がさめました。 目ざめたとき、私は一人で、たくさんの機械に囲まれていて、自分がすごい状態にあることに気づきました。 鎮痛剤をたくさんうたれていたので、痛みは感じませんでした。 私は何が起きたのかあまり覚えていません。 ぼんやりとした日々が過ぎていきました。 Cや両親に会った記憶が、ぼんやりとあります。 そして大勢の看護婦さんとお医者さんも。 私の体からいろいろなものが突き出ていて、指はソーセージのように膨らんでいました。 私は3日間以上集中治療室にいました。 4日目に一般病棟に移りました。 集中治療室では、いろいろな液体を注入されていたので、私の体は膨れ上がっていました。 私は生命維持装置に頼ってようやく生きている、死にかかっている人のようで、だれだかわからないほど膨れ上がっていました。 そんな私の姿を見るのは、両親やCにとっては、つらいことでした。 最初私は何かの人工呼吸器をつけていて、しゃべれませんでした。 口の中に何か入っていたのです。 その後、酸素マスクをつけていたのを覚えています。 マスクを取るとき、抵抗したのを覚えています。 酸素マスクを取られたら、もう2度と呼吸ができないのではないかと思ったからです。 とても怖い、とても奇妙な感覚でした! また管がたくさんついていたのも覚えています。 胸にも管、首にも管、背中にも1本…。 そして管を取るときの、いやな感じ。 さらにカテーテル、点滴、輸血用か何だかの管、そしてモルヒネ注入用のポンプ(ボタンを押すと、鎮痛剤が私の体の中に注入されるのです)があったと思います。
私は自分の人生で、こんなすごい状態になったことはありませんでした。 夜はつらいものでした。 恐怖の2晩を覚えています。 だれもいない。 いるのは私と恐怖心だけ。 ときどき痛みに襲われました。 悪夢にうなされて、目をさましました。 叫びながら。
集中治療室では、もう少し楽しいときもありました。 両親とCという、お客さんが来てくれました。 そしてCが、ロリポップのようなものを私がなめるよう、渡してくれました(私はまだ水も飲めなかったのです)。 おかしなことに、後でわかったのは、それはロリポップではなく、冷たい水に浸した、四角いスポンジのようなものだったのです。 集中治療室にいたとき、ぬれたスポンジが、さわやかなロリポップのような味がするなんて驚きでした。 そしてCはずっと病室で、私と話してくれました。 冗談やいろいろな話を聞かせてくれました。 それは最初は、私を起こしておくためでした。というのも、新たな問題が浮上したのです。 私は起きていられなかったのです! ちょっと目覚めても、すぐ にまた眠ってしまっていたのです。 皆、だんだん不安になったそうです。 でもCは皆に、「大丈夫、彼女の趣味は寝ることだから、いつかは起きるさ、今は寝ることを楽しんでいるんだから!」と言いました。 これは本当でした。 私は寝ることが好きで、最後にはちゃんと起きていられるようになりました。 そして私は今でも、いつまでも続く、薬に誘われた深い眠りについての、心地よい記憶があるのです。
--(続く)--
3回目の手術
年齢:24歳
手術日:1997年2月11日
手術方法:マイアミ・モス・システム、AO
Screws、 Kostuik Sacral Bar
病院:アメリカ、メリーランド州、ボルティモア、ジョンズ・ホプキンズ病院
執刀医:コストゥイク医師
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3rd operation (continued)
退院後、1週間ほどボルティモアのホテルに滞在した後、飛行機に乗って帰宅しました。 退院するとき、私はまだまだ体力がなく、気分もひどく悪かったので、もう少し病院にいたいと思い、実際、看護婦さんたちに、まだ自分は退院できる状態ではないと言いました。 ホテルでの1週間はひどいもので、痛みがどんどんひどくなっていくような気がしました。 また鎮痛剤のせいで、食べたものを全部戻してしまっていました。 ホテルにいた間、食べ物らしい食べ物をほとんど食べなかったことを覚えています。 ベッドの中で、テレビを見ながら、ずっとポテトチップを食べていました。 ほかにできることがなかったのです。 私は惨めな状態で、自分の体のどの部分もほとんど動かすことができませんでした。 両親と彼が、少し部屋の中や廊下を歩かせようとしましたが、とても痛くてできませんでした。 あるとき、あまりに痛みがひどくて気分も悪かったので、泣き出し、もう自分は絶対に回復しないのではないか、このままどんどん具合が悪くなって死ぬのではないかと思いました。 私はこわくなりました。 あるとき、ベッドから自力で起きあがろうとしましたが、できませんでした。 ほかの人の助けが必要でした。 屈辱感がわきあがってきました。 私は自分がどれほど無防備で無力かに気づきました。 トイレに行くために、1人でベッドから起きあがることすらできないなんて! この頃は、私の人生の中でも本当に最低の時期でした。 力がないので、ベッドで寝返りを打つにも、人にたよらなければならない状態でした。
(訳者注:アメリカは入院期間が極端に短く、側わん症の手術でも、手術の前日か、当日の朝に入院し、手術後も1週間で退院してしまいます。患者はトイレにも行けない状態で退院してしまうので、家族は大変なようです。ちなみに出産も、自然分娩なら1泊で退院してしまいます。)
ホテルを出る日、私の状態は少しだけよくなっていました。 その前の晩、夕飯を食べにホテルのレストランまで行きました。 痛みと吐き気にもかかわらず、レストランまで行き、そこでテーブルについているのは、たいへんな大仕事でした。 さらに、私は自分がどんなにひどい格好をしているかも認識していました。 まるで猫がひきずってくるぼろきれのような…。 きれいなレストランで、私は自分がひどく汚くて、場違いな気がしました。 でもクリスと両親は、私の回復ぶりにとてもうれしそうでした。 私は、もしかしたら自分は死なないかもしれないと思い始めていました。 でも飛行機に乗る日の朝、私はルームサービスで注文した朝食を少し食べてしまうという間違いを犯してしまいました。 朝食の中にはバナナがありました。
帰りのフライトはひどいものでした。 生涯の中で、あのときほど気分が悪くなったことはありません。 空港に着いたとたん、胃のあたりがむかむかしてきました。 そして吐き始めました。 あのバナナが大きな間違いだったのです。 鎮痛剤が吐き気を引き起こし、それに背中のストレスと痛みが加わりました。 フライト中、私は犬のように乗り物酔いをしてしまい、フライトの間中、吐きつづけていました。 痛みがひどいので、私を横たわらせるために、他の乗客にどいてもらわなければならないほどでした。 私はそれまで飛行機の中で吐いたことはありませんでしたが、今では、あの小さな茶色の袋のありがたさがよくわかるようになりました。 カナダの空港に着いたときも同じような状態でした。 気分が悪く、痛みにもだえていて、ベンチがあるたびに、横にならずにはいられませんでした。空港の職員の対応は冷たいものでした。 私が横になる場所を見つけてもくれなかったし、助けてあげようという感じもありませんでした。 それでも車椅子を見つけることができました。 他に選択肢もなかったのです。 実際、私は自分の足ではまだあまり歩けなかったからです。
そうそう、私が着けなければならかったギブスの話をしましたっけ? 私は病院で取り外し可能なギブスを作り、それを6〜8ヶ月の間、着けていなければいけないといわれました(結局8ヶ月間つけていました)。 シャワーを浴びるときははずしてもいいのですが、それ以外はずっと着けていなければいけませんでした。 ギブスは冷たいプラスチック製のもので、マジックテープで締めるようになっていました。 それでもかさばって、洋服で完全に隠すのは難しいものでした。
空港を出てからも、自宅のある街まで6時間車を走らせなければなりませんでした。 両親の車は乗り心地がよかったのですが、それでもかなりつらいことでした。 私は後部座席で横になり、眠ろうとしました。 やっと家に帰れるので、とてもうれしかったでした。 帰宅後の何ヶ月間は、ほとんどずっとベッドで寝てすごしました。 最初、私は食べたものをすべて戻してしまいました(例の鎮痛剤のせいです)。 私はリビングルームで、当時お気に入りだったTVドラマ「ハイランダー」、「ゼナ」、そして「ジェネラル・ホスピタル」を見て、痛みに耐えようとしました。 ほかにしたことといえば、パソコンの前に座って、HTMLを勉強したことでした。 ほかにできることもあまりなかったのですが、ホームページを作ったり、メールをチェックしたりするくらいはできました。
たまにいいこともありました。 大勢のお客さんが来てくれ、プレゼントやカードなどをたくさんもらいました。 母は私を椅子に座らせた状態で、私の髪を洗うのにたいへん苦労していました。 あるとき、私の足のつめを切りにやってきた女性がいました。 彼女は家族ぐるみでの友達で、とてもやさしい人で、名前はブランチといいました。 彼女が来てくれたことは、小さな出来事ですが、思い出深いものでした。 私の母は目が悪くて私の足のつめを切ることができなかったので、彼女はただ私の足のつめを切るためだけに来てくれたのです。 私は彼女が来てくれたことを決して忘れません。 それが本当に小さなことであっても…。 ブランチは温かくて、思いやりのあるすてきな女性で、長年ガンと闘っていました。 そして去年亡くなりました。 世の中は、なんて不公平なのでしょう。 彼女は結婚していて、1歳になる息子もいたのに! 側わん症持ちの私たちは、しばしば私たちがどれほど幸運なのかに気がついていません。 そうです、私たちは背骨が曲がっているかもしれませんが、命があるのです。
回復期につらかったことの1つは、数ヶ月間、自分のトラックを運転できなかったことでした。 私は自分のトラックをとても気に入っていました。 GM社の黒い、ジミーでした。 実際には父の車でしたが、背骨の病気のために父が私にくれたのでした。 私にとってトラックは友人のような感じになっていて(いえ、本当に)、ジェニーという名前をつけました。 また元気になって、愛車を運転する日を心待ちにしていました。 ジェニーについては過去形で書いています。 というのも、1997年2月に手術を受けましたが、その同じ年の9月、私は交通事故に遭い、車はほとんど全壊してしまったからです。 どこかのアホな女性が、私が交差点で曲がろうとしていたのを見落としたのです(後に知ったことですが、その交差点は通称、「あご骨・コーナー」と呼ばれ、事故が多いことで有名でした)。 女性の車は私のに激突してきましたが、私はけがはしませんでした。 ひどいショックを受けただけでした。 私を救ったのは、そのとき着けていたギブスでした。 衝撃を受けたとき、ギブスが私の背中を守り、支えてくれたのです。 それでも、レントゲンの結果を聞くまで、とても不安でした。 幸運なことにダメージはありませんでした。 しかし残念なことに、私は愛車のトラックを売らなければなりませんでした。 あのトラックにはいい思い出(そして悪い思い出も)がたくさんつまっていました。 私は新しい車を買いました。 今度のはフォード社のエクスプローラーでした。 新しい車に慣れ、愛着をもつようになるにはずいぶん時間がかかりました。 新しい車には、レッドという名前をつけました。 今ではその車をなつかしく思い出します。 私は今フランスに住んでいるからです。
さて、大きな手術から回復している人は、痛みのことで文句を言ったり、TVを見たり、インターネットを見る以外、他に何ができるのでしょう? 私は本をたくさん読み、新しいアパートに引っ越し、彼と母と一緒にお店を買いました。 そうです。 喫茶店を経営するのが私の夢だったのです。 それで私たちの住んでいる街で喫茶店が売りに出たとき、私たちは買いたいと思いました。 事業資金を借り入れ、店を買い取りました。 今から思えば、まだ毎日ギブスをつけて、体の柔軟性があまり回復していないときに、ああいったことをやったのはあまりいいアイディアではなかったのかもしれないと思います。 私は帳簿付け、電話の応対のほか、店で毎週やっていたエンターテイメントのアレンジ、従業員の給与の支払い、注文や在庫品の管理、毎月の美術品の展示の予約などをしました。 私たちの喫茶店は小さく、だれでも入れるような店でした。
でもジェニーと同じように、喫茶店も過去のことになりました。買ってからわずか6ヶ月後の、1998年1月のある寒い朝、火災が起きて、店は全焼してしまいました。 私たちの喫茶店の隣にあったパン屋から出火した火は、あっという間に燃え広がり、うちの店だけでなく、何軒かの店を焼いてしまいました。 保険に入っていなかったので、文字通りすべて失ってしまいました。 不運でした。 保険に入っていなかったのかって? そうです。ちょうどその週、保険の書類を書き上げようと思っていたのです。 でもちょっと遅すぎました。
その後私は大学の勉強に専念しました。成績が悪くて中退した大学に復学しました。 私は教養学士の学位を取り、フランス語の科目で表彰されました。 160ページにわたる卒論を書き、A+の評価をもらいました。 それだけでなく、奨学金をもらい、フランス語科で助手として働くことになりました。 私と彼とは、自分たちの家を買いました。 そして世界一かわいくて、賢い小さなボーダー・コリー犬を飼い、今私たちはフランスで英語を教えながら暮らしています。 ボーダー・コリー犬も一緒に! いずれにせよ、私は前よりずっと動けるようになったし、14歳のときより背中がまっすぐになったし、今までになかったほど、生産的な生活をしています。 週4日、授業を行い、以前よりたくさん歩いています。
この文章は、フランスに住んでいた2000年に書いたものです。
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Depression: Why Can't I Be Normal?
側わん症持ちの人――(ここで私が意味するのは、「重度」の側わん症の人です。ボディラインに目に見えるほどの影響のない、「軽度」の人のことではありません)――、他人にわかるほど側わん症が重い人で、側わんのせいで落ち込んだことが一度もないという人がいたら、教えてください。 私はあなたに会って、どうしたらそんなに前向きでいられるのか、その理由を知りたいと思います。 私にとって、側わん症とともに成長していくのは、とても大変なことでした。
私は12歳のときに側わん症と診断されましたが、そのときはまだ角度も少なく、私の体が少し曲がっていることに気づいたのは母だけで、それも、私が宿題をやっていたとき、台所のテーブルで前かがみになっていたので、おかしいことに気づいたのでした。 12歳のときに受けた最初の手術は、私を「治して」くれるはずでした。 私自身は、自分の外見がおかしいとは、14歳くらいになるまで思いませんでした。 その頃になると、姿勢が悪くなってきて、片方の肩甲骨のところが飛び出始めたのがわかりました。 洋服が以前のようには体に合わなくなりました。 私は自意識が強くなり、社交的な場やスポーツ活動からどんどん遠ざかっていきました。 その年に受けた2回目の手術は、問題を解決してくれるはずでした。 手術はロッドを長くするというものでした。 前回の手術ではロッドが短すぎたため、背骨の下のほうが曲がってきていたのです。 でも、きっともう遅すぎたのでしょう。 手術後も私の体はかなり歪んだままで、成長するにしたがって、なんと言うのか、プレッツェル(注)のような体になってしまいました。 ええ、たしかに私の見方は悲観的です。 それでも、たまに鏡を見ると、私には“プレッツェル人間”にしか見えませんでした。
(訳者注:プレッツェル=ひらがなの「め」のような形をしたお菓子。)
14歳から、そんな体で成長するというのを想像してみてください! そもそも私はそれほど人気のある子でもなかったし、家庭では、さらに落ち込ませるような深刻な問題を抱えていました。 私の父はアルコール中毒で、家族も仲のいい家族とは言えませんでした。 いわゆる「機能不全」の家族だったのです。 それで、家庭から精神的な支えを得ることはできませんでした! 学校では、私は人目を避けるようになりました。 他人に自分を見られるのが、たまらなくいやでした。 私は落ち込みました。 雑誌やテレビを見るたびに、皆がいやになるくらい完璧に見えました。 皆のまっすぐな背中。 私は自分の部屋にこもり、「なぜ私が?」と思い、何時間も泣きつづけました。 なぜ、運命だか、神様だか、遺伝的な運命だか知らないけれど、そういうものに私はとりつかれてしまって、こういう風になってしまったのだろう…と!! とても孤独でした。 私の周りには、側わん症の人はだれもいませんでした。 たまに、「私も側わん症なの」という女の子がいて、私は、自分の経験を理解してくれる人がいる、自分だけではないのだ、と期待しました。 でもいつも、その子は「側わん症気味」という程度で、装具をちょっとつけたことがあるとか、あるいは1回手術をしたという程度で、背中は完璧にまっすぐで、私ほど側わん症に人生を左右されてはいませんでした。
ある日、私はモデルでもあり女優でもある、イサベラ・ロッセリーニのインタビューをテレビで見ていました。 彼女は今までに見たこともないほどきれいな女性で、私が、初めてではないにしても、性的に魅力を感じた女性の1人でした。 彼女は本当に完璧でした。 やがてインタビューの中で彼女は、自分は側わん症だと告白したのです! 私は頭がぐるぐるまわりました。 こんなに完璧な女性、スーパーモデルの彼女が、“私”と同じ病気だなんて、そんなことがあるだろうか?? 私は怒りました。 彼女を殺したくなりました。 少なくとも、テレビを叩き壊したくなりました。 ものすごい不公平感を感じました。 不公平すぎる! どうして彼女は側わん症で苦しんだ、などといえるのだろう、彼女は明らかに曲がってもいないし、背中もまっすぐなのに。 醜さと美しさ、側わん症とスーパーモデル?? 私はどうしても、自分の中でこの2つの現実の折り合いをつけられませんでした。 いや違う、世の中、不公平すぎる。 うまく説明できないのですが、私は同時にとても悲しくなり、また沈み込みました。
いずれにせよ、成長の過程で、私は幸せなティーンエージャーではありませんでした。 1990年、愛犬の突然の死は、私を“うつ”の渦の中に投げ込みました。 身近な人の死は私にとってこのときが初めてだったので、私は状況にどう対処したらいいのか、わかりませんでした。 やがて私は12年生(=高校3年生)を落第しました。 優等生から落第生へ…。 私は背中のことのストレスと、うつに対処することができず、授業を休むようになりました。 学校に行くたびに、私は自分のことが気になってしかたがありませんでした。 皆が私を見ているような気がして、自分を隠さなければならないような気がしました。 息が詰まりそうで、私はここから出なければいけない、と思いました。 ついに授業にほとんど出なくなり、問題児になっていきました。 おかしなもので、それまでかかわったこともなかった、いわゆる「ちょっとワル」なグループが、私が薬をやっていると勘違いして、ドラッグ・パーティーに誘ってきたことがありました! へへ…! いいえ、私は行きませんでしたよ。 私は大勢の人に囲まれるプレッシャーに耐えられなかったのです。 人が集まるところに行きたくなかったのです。 それは耐えられないことでした。 自意識過剰になってしまうのです。 それに彼らは間違っていました。 私は薬物に魅力を感じたことは一度もなかったし、たばこを吸いたいと思ったこともありませんでした。 ええ、衝動にかられたことは何度もありましたし、自分でそういう道を選んでいたら、いくらでもできる状況にありました。 しかしありがたいことに、薬物には近づかないだけの良識を私はもっていました。
ただ10代の終わりの方になって、お酒を飲み始めました。 これは、ときどきクラブやバーに行くようになった結果でした。 つまり、バーに行くと、精神的なプレッシャーがあまりに大きくて、それに対処する唯一の方法が酔っ払うことだったのです。 酔っ払っていたとき、私は人生最大の過ちを犯しました。 とても落ち込んでいたあるとき、自殺しようとしたのです。 そのときバーで流れていた音楽は、映画「ブレックファスト・クラブ」の"Don't You Forget About Me(ドンチュー・フォゲット・アバウト・ミー、私のことを忘れないで)"でした。 その曲は私を、自分ではどうしようもないほど自殺に追いたてたのです。 私は抗うつ薬を服用した後、泥酔しました。 気がついたら、知らない人とベッドにいました。 これは生涯後悔することになりました。 このとき以外にも、酔っ払うことしか落ち込みを解決する方法がなくて、バーで知らない人にナンパされたことが2度ほどありました。 多分、「だれかに求められたい」という気持ちがあまりに強かったのでしょう。 クセになっていたかもしれません。 ありがたいことに、この自己破壊の傾向は、1991年に「私にとって最高の男性」に出会ったことによって終わりました。 でも、その話はまた別のときにしましょう。
自分は醜くくて、だれからも好かれないという気持ちを、私はよく理解できます。 映画「ブレックファスト・クラブ」は、さんざん泣かせてくれました。 皆と違うという気持ちが、すごくよくわかりました。 ただ、この映画のラストは嫌いで、ひどく頭にきました。 なぜなら翌日、学校に行けば、皆がそれぞれのばかげた小さなグループに戻り、以前と同じようにお互いを無視し合うだろうことが見え見えだったからです! それにモリー・リングワルドが、きれいでもない女性(アリー・シーディー)を助けて、「見栄え良く」してあげた後、スポーツマンの男性が彼女にほれ込むという点も気に入りませんでした。 この映画が言わんとしていることは、愛されたいなら普通に見えなければいけない、というものでした! 見た目が皆と違っていたら、受け入れられない、というものでした! スポーツマンの男性は、彼女が本当の自分とは違ったように自分を見せたとき、彼女が「普通」の子のように行動したとき、初めて彼女のことを好きになったのです。 というわけで、「アブノーマル」で、少し変わり者の私が、その映画のストーリーを気に入らなかったことは、おわかりだと思います。 でもまだ若かった私は、その映画の影響を受け、誤ったメッセージを受け取ってしまいました。 プロザック(=抗うつ薬)を飲んでいるときは、暗示にかかりやすいのかもしれません。
そうそう、それから話しましたっけ? 母は私がうつ状態にあることに気づき、私を心理学者のもとに行かせ、そこから私は精神科医に紹介されました。 何も役に立ちませんでした。 私は彼らを全く信頼していませんでした。 カウンセリングの後、 母が電話で、そのときの様子を聞き出しているのを見てしまったことも信頼を失わせました(小さな町に住んでいたので、そういうことが起こるのです)。 10代の終わり頃になって、精神面での助けを求めに、自分からソーシャル・ワーカーのところに行きました。 そのときも精神科医を紹介されました。 このときは薬を処方されました。 筋弛緩剤、抗うつ薬などです。 薬の中に、プロザックもありました。 私は薬を飲むことに賛成なわけではありません。 でも当時の私にはもっとよい方法もわからなかったし、わらにもすがる思いだったので、薬を飲みました。 そして薬の依存症になってしまいました。 医師は、何と診断したのでしょう? そううつ病かもしれない、あるいは本物のうつ病かもしれない、ああかもしれない、こうかもしれない…などなど。 そしてカウンセリングではいつも、アルコール中毒だった父や、愛犬の死による悲しみが原因として取り沙汰されました。 カウンセリングが、私の背骨という、問題の核心に至ったことは一度もありませんでした。 その原因が精神科医側にあったのか、私にあったのかはわかりませんが、いずれにせよ側わん症はそれほど話題に上りませんでした。
やがて、私は11歳頃から強迫神経症でだったということがわかりました(そう計算してみてください。神経症は、12歳で側わん症と診断されることの予兆だったようです)。 私は自分の精神疾患と、ほとんど1人で闘いました。 しかし小さな町のセラピストは、これは珍しい疾患だと言って、私が自力でそれを克服できるはずがないと主張しました。 でも私は克服しました。 正直なところ、今でもときどき症状がでますし、決してつきあっていて楽しいものでもありません。 それでも私は対処方法を見つけましたし、何年にもわたって自分だけの力で、薬に頼らずに乗り越えてきました。 また、15歳くらいの頃から、さまざまな種類のパニック障害とも闘ってきました。 摂食障害にもなり、神経性無食欲症の一歩手前までいきました。 私は自分で自分のことをコントロールできることに、ひどくこだわる傾向があります。 恐らく、側わん症やその他のできごとを通して、自分でどうしようもできない無力感を味わったせいかもしれません。 食べないことは私にとって、自分で状況をコントロールできることを示す手段になりました。 ダイエットをしたいと思ったことはありません。 私はいつもがりがりだったので、逆にいつもダイエットしてみたいと思っていました! でもパニック障害は大抵の場合、汚染されるという恐怖心を伴ったので、私は何日間、あるいは何週間もの間、ほんの少ししか食べなかったこともありました。
「なぜ私は普通になれないの?」――これはことあるごとに私の心に浮かんだ言葉でした。 私にとっての「普通」とは、まっすぐな背中をもっていることでした。 美しい女性が大勢載った雑誌を見た後、あるいはテレビや映画を見た後、あるいは学校から帰宅した後や、ショッピング・モールから帰ってきた後、私は自分の部屋に閉じこもり、「なぜ私は普通になれないの?」と泣きました。 ときどき、ひどく落ち込んで、普通の人、とくに女性全員に憎しみを感じたこともありました。 普通の背中を持った人全員を殺すという空想にふけりました。それほど私は彼らを憎んだのです。 側わん症持ちの人で、そういう感情を持った人はいるでしょうか?
やがて私は1991年にクリスに出会い、彼は私の人生を変えてくれました。 同じ頃、私はオカルトに夢中になり、従来の宗教(いいえ、正確に言いましょう、「すべての宗教」)と絶縁しました。 そういうふうにして自分自身の精神性を見出すようになってから、私は飛躍的に成長しました。 たまに、「うつ」が醜い頭をもたげ、ときには私のソファに足を投げ出し、しばらくそこにとどまっていることもあります。 でも今では、うつと私とは親しい仲ですし、うつが私をいじめることはさせません。 私は薬に頼らず、自分で乗り越えることに大賛成です。 でもそれは私が薬のことで、とてもネガティブな経験があったからであり、それがあなたにとっても良くないと言うつもりはありません。 私がかっこいいと思っている友人が指摘してくれたように、その人やその状況によりますし、薬がすべての人にとって良くないなどという一般論的なことは、私には言えません。
さて、これを書いているうちに、少し落ち込んできたので、ちょっと出かけていってコーヒーでも飲んできましょう。 近所の喫茶店でのおいしいコーヒーは、少なくとも一時的であっても、問題を解決してくれます。 私はうつ病と側わん症のことを書きたかったのですが、わき道にそれてしまいました。 これを読んでくださった人が、この文章から何か得るものがあるといいのですが。 少し「カフェインを入れ」てから、次の文章を書きます。約束しますよ!
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Deviated's Scoliosis Tips & Advice Page.
毎週、私のメールボックスには、側わん症や、装具、手術、うつ病など、あらゆる種類の疑問や情報を求めるメールが届きます。アドバイスをするのはとても気が引けるのですが、−−なぜなら、あなたにどうしたらいいかなんて、私には言えませんから−−、疑問に対するヒントや答えを見つけられるアドバイスのページを作ることにしました。
* あなたの体は、あなたの本当の姿ではありません。 あなたの体型は、あなたの内面を反映してもいないし、本当のあなたでもありません。 あなたを決めるのは、あなたの肉体、私たちがこの命を生きる間にまとっている「殻」ではないのです。
* 美しさは、外見で決まるのではありません。 あなたの心が幸せで、前向きなら、それは外に輝き出るし、鏡を見たとき、どんなに背骨が曲がっていようとも、あなたはそこに美を見るでしょう。 そしてあなたの周囲の人も、あなたの外見とは関係なく、あなたが美しさで輝やいているのを見るでしょう。
* もしあなたのお子さんに側わん症の兆候があったら、できるだけ早く専門医に診てもらってください。 「治療」として装具や手術が必要になることもあるでしょう。 何か決断を下す前には、他の医師や専門家からセコンド・オピニオンを求めてください。
* 手術が必要になったとしても、パニックにならないでください。 この世の終わりではないし、あなたは乗り越えることができます! 手術を、乗り越えなければならない、個人的な挑戦と考えて、自分なりの目標を設定してください。 手術は怖くて避けなければならないことだと否定的に考えるなら、恐らく苦い経験にしかならないでしょう。 強く健康な心をもって、笑顔で臨めば、成功するでしょう。笑顔によって、驚くほど多くのことが乗り越えられます。
* もしあなたがエホバの証人で、あなたかあなたのお子さんが手術が必要になったら、手術をさせてください。 側わん症はなくならないし、治療しなければ、進行して、心肺機能に影響がでて、車椅子生活になるかもしれません(注1)。側わん症は望んでいればなくなるものでも、単に「やり過ごせる」ものでもありません。 同様に、もしコープス療法(注2)を検討しているなら、気をつけてください! 多くの場合、側わんがきつくて、手術が必要になると、手術を避ける方法はありません。 それから、カイロプラクターには近づかないようにしてください。 少なくとも、専門医にみてもらい、すべての選択肢をやりつくして、カイロプラクターやマッサージ・セラピストにできること/できないことについて専門医から説明された後に試してください。
(訳者注1:側わん症そのものによって、車椅子生活になることはまず、ありません。)
(訳者注2:「コープス(Copes)療法」とは、アメリカで元カイロプラクティック師だったコープス氏が開発した側わん症治療方法。装具を着け、指定された栄養剤などを服用する。高額なことで有名。コープス氏の学歴詐称疑惑や、解約後も費用を返却しないなどといったトラブルもあり、元患者の中には裁判に訴えようという人も。)
* 背骨が曲がっているせいで落ち込んだとき、洋服を選ぶのに困ったとき、Tシャツを着るのがいやなときなどには、自分の体型は受け入れなければならないことを認識してください。 大抵の場合、まわりの人は、あなたが思っているほど気にしていません! ほかの人は気づかないものです。 ときどき次のことを、試してみてください。 最初は大変だけど、自分にずっと自信がもてるようになりますよ。 Tシャツを着る、自分の中身が「わからない」と思われるTシャツ、それを着て街に出る。 ジャケットは禁止! 他の人があなたに笑いかけたり、あるいは「よくはわからないけれど、いつもとどこか違うね」と言われたら、たとえば今日はきれいだとか、髪を切ったのかとか聞かれたら、そらね! 人々はあなたがもっと親しみやすくて、肩の力が抜けて見えることに気づくでしょう。 そしてこれを頻繁に試してみればみるほど、どんどん簡単になっていって、誉め言葉をたくさんもらうようになるでしょう。 ときには、ドレスを着てみてください。 海で泳いでみてください。 こうした小さな目標は、あなたが自分のために立てられる目標です。
* そして私からの最後のアドバイス。 側わん症に左右されないで! 上でも言ったように、だれかに背中を見られるのがこわくて、夏でも上着を着たり、ジャケットの陰に隠れたり、人がたくさん集まるイベントやビーチを避けるのなら、あなたは背中に、いえ、あなた自身の恐怖心に、あなたの人生を支配されていることになります。 側わん症にあなたの人生を支配させないでください。 あなた自身のために、一度きりの人生を生きてください。 自分の背中を受け入れ、背中のせいであなたの人生がだめにされることがないようにしてください。 それほどの価値はないのです。 これから、もっとたいへんなことがあるかもしれないし、もっとつらい状況がくるかもしれない。 だから、自分が今、持っているものに感謝して、あなたの人生を生きてください。 自宅や一枚余分に着た上着、恐怖心の陰に隠れないでください。
ある日、私は何を着ようかと悩み、落ち込んでいました。
そのとき友人が言いました。そのとき私はきつい一言だと思いました。
「いい加減にしろ。背中のことをそんなに気にしているのは、あんただけだ!」
その言葉を頭の中に入れて、この夏はずっと、毎日顔をあげて
ジャケットはあるべきところ――自宅のハンガーに置いておきました。
あなたも同じことができますように!
(そして、だれも言ってくれなかったことを言ってくれたクリスに感謝。)
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悩み多きイベント――パーティー、ショッピング・モール、洋服を買うときなど
Stressful Events: the prom, the mall, shopping for clothes etc...
ショッピングモール
The Mall
ほとんどの若い女性はショッピング、とりわけ新しい洋服を買うのが好きです。 ティーンエージャーだった頃、私は洋服を買いに行くのが大嫌いでした。 夏が終わりに近づくと、母は秋からの新学期に備え、新しい洋服を買うために私をショッピングモールに連れて行きました。 高校生にとって、外見を良くすることはとても大切なことです。 皆と同じようでありたいと思うし、少なくとも自分を素敵に見せたいものです。 でも私にとって、それは不可能なことでした。 ショッピングモールは、完璧な体型の人々が大勢いる、騒々しくて、せわしない場所で、私はモールに行くとよく頭痛になったり、ひどく落ち込んだりしました。 世界中のお金を積んでも、役に立たなかったでしょう。 私は店から店へと、自分の体に合わない洋服を何時間も試着してまわりました。 母は、私が気に入った服、私が学校に着ていく服、他の洋服のように「体に合わない」から、たんすの中にしまい込んで2度と着ないことのない服なら、どんなに高くても買ってくれる気でいました。 私はファッションが大好きだったので、これはとりわけつらいことでした! 私にはすごく着たい服がありました。私は毎年流行を追っていました。 ファッションデザイナーになりたいと、ずいぶん長い間思っていたほどです。
試着室の中に鏡がない店は、最悪でした。 中に鏡がないので、洋服を着てみた感じがどんなかを見るために、外に出てこなければなりません。 店員さんや他のお客さんの前に…。 そういうとき私は、なぜ洋服が体に合わないのか、なぜこういう体型なのか、なぜ背中に大きな傷があるのかを、まるで壊れたレコードのように何度も繰り返し説明しなければなりませんでした。 なぜ自分の体に合うたった1本のジーパンを探すために、店に置いてあるほとんどすべてのジーパンを試着しなければならないのか。 なぜ私がノースリーブのシャツを着たくないのか、アメリカンスリーブのトップスを着たくないのか、ストラップレスの服、タイトなスカート、ぴったりしたパンツ、テイラード・ジャケットを着たくないのか。 私は変種だからなのよ! 私は普通じゃないし、あなたや皆みたいに完璧じゃないのよ! 私はショッピングモールから逃げ出し、バスに飛び乗って家に帰ってしまいたい衝動にかられました。
それからほとんどすべての洋服店には、あらゆる角度から自分の姿をチェックできる大きな鏡があるでしょう? あ゛あ゛ー! 側わん症持ちの人にとっては、なんて酷なんでしょう! 気分も良くて、自分の体型もまずまずだなぁと思っているところへ、突然どっかーん! 鏡に映った自分を見て、自分の本当の姿を思いしらされるのです。 もう死にたくなります! 私はそのせいで何週間も落ち込んでいました。
そう、ショッピングモールは私にとって楽しいところではありませんでした。 地獄でした。 私のこれまでの人生のほとんど、数年前に最後の手術を受けるまで、地獄でした。 私は前より背中がまっすぐになったし、自尊心も強くなったので、パニック障害にならずにショッピングモールを歩けるようになり、自殺したいと思わずにモールから出てこられるようになりました。 洋服を買いに行って、初めて自分の体に合うかどうかではなく、その洋服がきれいかどうかで選べたときは、うれしくてぞくぞくしました(とはいっても、本当にわずかの種類の服ですが)。 ドレスも着られるし、Tシャツだって着られる! 今でもスカートは大抵だめだし、スタイル的に着られない洋服はたくさんあります。 私は腰が曲がっているし、体がねじれているからです。 でも洋服を買うことに関しては、以前よりずいぶん選択の幅が増えました。 これはとても気分のいいことです! 母とは、今でもたまに一緒にショッピングに行きますが、母にとってもずいぶんストレスが減ったのではないかと思います。 私はずいぶん変わったし、母にとっても気分がいいのではないかと思います。 母は私が落ち込んでいるのを見たくないからです。
プロム・パーティー
The Prom
(訳者注:北米の中学・高校では、卒業前に「プロム(Prom)」と呼ばれるパーティーが開かれる。男子学生はタキシード、女子学生はロングドレスを着ての、フォーマルなパーティー。原則としてカップルで参加するので、一緒にプロムに行くお相手探しも、学生の大きな関心事。)
若い女性にとっての、人生の一大イベント。 9年生(=中学3年)の「ジュニア・プロム」のことではありません。 私はこれには出ませんでした。 どのみち、ジュニア・プロムは私にとってはそれほど重要な出来事ではありませんでした。 私が言っているのは、もっと重要なほう、12年生(=高校3年)の「シニア・プロム」のことです。 プロムに一緒に行く相手がいたので、その点はラッキーだったと思います。 この問題はクリアしました。 解決すべき問題は、自分の体に合ったドレスを探すことでした! 私はすぐに、そんなことは無理だと思いましたが、それでもドレスを探しに店から店へとまわりました。 結果は惨たんたるものでした。 母が、私が喜ぶようなドレスがあれば、どんなに高くても買う、とまで言い出したほどでした。 しかし母の言葉も助けになりませんでした。 なぜって、合うドレスがなかったからです。 ほっそりとしたウェスト、体にぴったりとしたドレス、ストラップレスのドレス、そして大きく開いた背中。 私に合うドレスなどないのです!
私はプロムに出たくないと思いました。でも、私は12年生を一度落第していて、その年のプロムにも卒業式にも出られませんでした。 これは私にとってひどくショックなことでしたし、ようやく卒業できることになったので、私はすべての行事に参加したいと思いました。 結局、プロム用のドレスのカタログから私が気にいったドレス選び、その写真をもとにして、1からドレスを作ることになりました。 私の奇妙な体型に合わせてオーダーメイドするしか、解決策はないと思えたからです。 できあがったドレスは深いロイヤル・ブルーの美しいフォーマル・ドレスで、袖はパフスリーブでした(「赤毛のアン」のファンの人なら、わかるでしょう!)。
ドレスはVネックで、襟ぐりには白い刺繍がしてあり、きらきら光る白い真珠もちりばめてありました。 袖口にも同じデザインの刺繍がしてありました。 ドレスのすそもとてもきれいでした。 すその両サイドはもちあがり、そこに白いリボンがついていました。 サイドからは刺繍をした白いレースのプリーツが覗いていました。 ドレスに合わせて、ブルーの手袋と靴も用意しました。 いわゆる流行のプロム・ドレスではなく、昔ながらの「おとぎ話」風のドレスでした。
でもこれはディズニーの世界ではありません。 魔法の棒を一振りして、すべてを解決してくれる妖精などいないのです。 このドレスはすてきに思えるかもしれませんが、私の背中の盛り上がりを隠すために、針子さんはドレスの背中に余分に布を入れなければなりませんでした。 でも見栄えよくなかったので、それを隠すために背中にフラップのようなものをつけました。 私は、これはおかしすぎると思いました。 なぜなら、ほとんどの女の子のドレスは背中が開いているからです。 それに比べて私のドレスは奇妙でした。 ボーイフレンドも友達も家族も皆、すてきだと言ってくれましたが、私は信じませんでした。 多分、状況そのものが私の手に余っるものだったのだと思います。 プロム・パーティー当日になり、Cと友人たちが来てくれましたが、私はまだ自分の部屋で泣いていました。私は行きたくないと言いました。 すでにパーティーには遅刻の時間でした。 私は自分が醜く、ドレスも醜いと思いました。 皆、そんなことはない、きれいだと言ってくれて、結局私たちはパーティーに行きましたが、私はあまり楽しめませんでした。 少なくとも、もっと楽しめたはずだったろうと思います。 私は自分がごねたせいで、友人たちまでパーティーに遅刻させてしまい、ボーイフレンドと楽しくすごせるはずだった一夜をぶち壊しにしてしまったことで、ひどく滅入っていました。
一連の出来事のポジティブな面ですか? そうですね。 一緒に行く相手がいたことと、プロム・ドレスを用意できるだけの経済力が両親にあったことでしょうか。 今思い出してみても、その晩はあまりいいことがなかったと思います。 かなりぶち壊しになってしまいました。 私がぶち壊したのです。 私の自尊心の低さのせいです。 どんなにきれいなドレスを着ても自分は醜いと私が思いこんでいたせいです。 私は側わん症のことしか、考えられませんでした。 他のことは全く考えられなかったのです。 “私と側わん症”対“会場いっぱいのまっすぐで正常な背骨を持った生徒”。 あの夜私は、いっそ自宅のベッドにもぐりこんでいればよかった、と思いました。
振り返ってみると、私は自分の自己イメージがあれほど歪んでいたことを恥ずかしく思います。 プロム・パーティーでの私の写真は、これまでの私の写真の中でも一番いい写真ですし、実際、パーティーの終わりのほうになって、パーティーを楽しむことができました。 自分のネガティブな気持ちを脇に追いやって、「普通」の人のように楽しんでいたら…と思います!なんて皮肉的…。「普通」の人のように。
これはシニア・プロムでの、私の写真です。
ファッションが大好きな私ですが、側わん症とともに成長するのは、完璧な女性、とりわけ「スーパーモデル」の美しいイメージで「爆撃」されると、とりわけ大変なことになります。
下はクローディア・シファーの写真です(彼女って、ゴージャス!)。
私が個人的に好きなのは、リンダ・エヴァンゲリスタです。

フランス暮らしも助けになりません。 ここフランスでは、洋服は細身に裁断されていて、パンツはぴちぴち、シャツは2サイズも小さく、女性らしいカーブを強調するように作られています。 間違った場所に「カーブ」がある人には、意味がないのです! ここではどんな洋服も私に合わないし、買い物に行けば、過去のいやな記憶が呼びさまされます。 私は肥満フランス人にはなりたくないし、今、フランスでは絶対に無食欲神経症や摂食障害が問題になっていると思います。 つまようじのようにやせていないと、この気違いじみた国で売られているどんな洋服も着られないのです! ああ、カナダに帰りたぁぁぁぁぁぁぁぁい…。(2001年6月18日記)
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その後…。
2001年、恋人のクリスとケンカ別れした著者は、単身カナダに帰国。故郷で英語教師の仕事を探すかたわら(日本で教えないかという誘いもあってかなり心が動いたらしい)、大学院への進学を検討中だそうです。(2002年2月現在)